一年ためしてみたけれど、腹巻が腰痛に効くというのはけっこうマジ
なにかにつけて過去の苦労話をする、そんなおっさんほど悲しい生きものはないが、このおれの塗炭の苦しみを吐露させていただけるのであれば、腰痛がつらいのである。部活がよくなかった。
高校のころヘルニアになった。部活のオフ期に養生したため、ヘルニアはなんとか小康状態とらくちゃくした。だが爾来、おれの人生は、腰痛との闘いに日々明け暮れることとなったのである。
これではいけない。なんとかしなければならない。生活とは改善の連続である。眉宇に決意をみなぎらせ、おれはついに生活へ「腹巻」を導入することにしたのである。
腰痛は季節の変わり目にやってくる。金木犀の風香る秋、静寂と寂寞の冬、さらにいえば大気に喜びの気配満ちる春でさえ、腰の痛みを誘導する。こんなかたちで日本の美しい四季を感ずることになろうとは、おれはおもってもみなかったよ。
入念な諜報活動をこころみたところ、どうやら「一定の温度を保つ」ことが要諦らしい。むろん、ぎっくり腰などの炎症による腰痛は冷やしたほうがいいようだ。しかし、日常的に腰痛に辛苦しているのであれば、血流が悪いことが原因であるらしいので、暖め、血流を促進し、とにかくいつも一定の状況においておくことがポイントらしい。
それなら赤道直下あたりに引っ越せばいい。そうおもってもみたが、異国の文化にあかるくない。家族もいるし、活計の憂いもある。就労ビザの問題とか。テロもしんぱい。ほんと生きるってたいへんですよね。でも、それよりもなによりも、おれはこの国が好きだ。
腰痛とこの国で暮らす。そのためにマストなアイテムが腹巻である。そうおもったのは、この一年、腹巻生活をしてきたからです。最初は、こんなことで腰痛が抑えられるのか疑心暗鬼でした。けどためしてみてびっくり。ほんとに良くなったんです。
埼玉県に住む望月さん(三十二歳)は、ふたりの男の子と元気に遊ぶ子育てパパ。わんぱくな息子さんとパワフルに遊べるのは、腹巻をしているからだとおっしゃっています。
「急にピキっとくることがなくなりました。とくに寒くなってくると、痛みというよりか、苦しい感じが腰のあたりでもやもやするんですけど、それも少なくなった気がします。もちろん全然まったくなくなったってことはないんですけど。それでもふつうにしていられるくらいです。もう季節の変わり目がこわくなくなりましたね」
そんな望月さんがつかっているのがこれ。カラーのバリエーションもあり、公私TPOによって白や黒を使い分けているそうです。
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最後に望月さんは語ってくれました。「いままでなんで使ってなかったんだろう、って。こうして子どもを抱っこしたり、肩車したりできるのは、腹巻のおかげですね。ほんと使ってよかった」
しかし、腹巻をすると問題点がいくつか浮かび上がる。ワイシャツから透ける。胴回りが太く見える。腹巻をしているということが周りの人間に知られたとき恥ずかしい。などであるが、もっとも日常的に問題になるのは、腹巻は「穿く」ものなのか「着る」ものなのか、ということである。
この一年、こればかりを考えてきた。腹巻を装備するさい、これを下からいけば「穿く」。けれども上からいけば「着る」。ひどく曖昧なのである。もちろん、これは個人の好みによることでもある。腹巻を下から穿くひと。腹巻を上から着るひと。みんなちがってみんないい。
しかし、ちがいは論争をうむ。互いの正義は相容れない。ゆえにおれはこの「腹巻あいまい問題」について、ひとつ究極の答えを出した。だからもうみんな心配しなくていい。その答えとは、すなわち、腹巻とは「つける」もの、ということである。この発想の原点は、おもに女性が使用する下着、ブラジャーから得たものである(以下ブラと省略表記する)。
ブラは着ない。上半身に身に付けるものでありながら、それは「着る」という動詞を用いない。そう、ブラはつけるのである。ブラの装着維持はおもにホックと呼ばれる金具をもちい、胸囲を囲わせしめ、そこから発生する張力をもって、地球の重力による脱落を阻止している。肩のひもは補助的な役割らしい。
これは腹巻にも通底する原理である。腹巻にはゴムが内蔵されており、そのゴムによる張力をおもな固定原理として腰に維持させる。着る穿くというのは、腹巻への導入であって、状態ではない。腹巻は張力によって「ついている」のである。
腹巻は着てもいいし、穿いてもいい。けれども結局のところ「つける」というのが中庸の徳である。そんなところで話の腰を落ち着かせたいですね。
※ちなみにこの記事に医学的根拠はまったくありません。個人の感想です。
フジファブリック「F」
志村が鬼籍に入ったのちのフジファブリックについて問われれば、「あんま聴かないなー」などと言って皮裏の陽秋。しかし内実、「フジファブリックは志村のバンドじゃ」と夜叉のごとき煉獄の怒りを燃やしていたのである。
衷情を披瀝させれば、おれはバンド名を変えてほしかった。ジョイディヴィジョンのごとくである。イアンカーティスというカリスマを失ったジョイディヴィジョンはニューオーダーと名前を改め、音楽性も進路を変更し、テクノミュージックのレジェンドとなった。
だからフジファブリックもバンド名を変えてほしかった。志村のバンドを上書きしてほしくなかったのである。邪馬台国の遺跡のうえにあべのハルカス建築するなよってかんじ。それに山内総一郎と金澤ダイスケならば、志村とはちがう方向性で、素晴らしい音楽を構築していけると信じていたからである。
ゆえに、三人になったフジが「志村っぽい」曲を発表するたびに、いつまで志村の幻影に追従しているのだ、と内心舌打ちを放ちたくなったのである。しかしこれはおれの増上慢であったことがのちに判明する。
「F」というアルバムを聴いた。とてもいいアルバムだとおもった。最近おれは自分で気がついたのだけれども、おれは音楽に込められた「情熱」というぶぶんにもっとも傾聴の主眼をおいている。むろん、どのバンドも「情熱」を音楽に込めているとおもうから、「おれ好みの情熱」と言い換えたほうがいいのかもしれない。
聴いておもったのが、フジファブリックの三人がもっとも志村のフジファブリックを意識しているということである。志村のフジファブリックへ情熱を捧げている。三人体制になったのち、いままでそういう曲があったのかもしれないが、今回とくに「手紙」という曲で、その情熱をありありと感じてしまったのである。
きっと曲に行き詰ったとき、彼らは「志村ならどうする」と考えているのだろう。そういうことを歌詞で言っちゃってる。おれはこれは音楽をつくる人、ってゆうか創作をする人、大きなくくりで言えば男として、とてつもない決断だとおもう。
なにかを創るときに「自分らしく」とおもう。きっとゼロからものごとを産出できるひとは稀だとおもう。みんななにかしらの影響を受けて作品を創る。影響が現れてもそれを公言することはあまり無いとおもう。けれどもフジはそれを言っちゃってる。並大抵の覚悟ではないとおもう。
おもうに、フジファブリックは己の個性を押し出すことを二の次にして、フジファブリックという生命体を生かすことを命題としているんじゃないかしら。だからやはり志村を意識している。たぶん彼らは今でもずっと、フジファブリックはおれたちだけのバンドじゃない、とそうおもっている。
そういったことをなんとなく感じてしまった。というか漸く気付いたのかもしれない。そう感じてからは、堰を切ったかのようにフジファブリックの三人への愛情が滔々と身に流れ出したのである。おまえら、好きだ。
「Walk On The Way」とかもそう。おれのなかで四度あけたツーコード感は志村ぽいなーとかんじてしまう。たぶん「茜色の夕日」とか「若者のすべて」の印象である。志村ってあんまコードをたくさん使うほうじゃなかったような気がするし。
余談になるが、おれは「若者のすべて」という曲をあまり聴かない。あまりにも有名すぎるからである。おれはベストセラーなんて絶対読まない。なんて気概でいたのだけれども、ふと聴いてみると名曲なことこの上なく、ほんと感動しちゃう。ちなみにコンビニ人間は超おもしろかった。
他を拝して自を賞するのは究極にダサいが、さいきんの曲は、音楽をいかに「考えるか」に焦点が絞られているような気がしてしまう。それに比して「若者のすべて」はノーガード。シンプルすぎる。それなのに志村のこの曲は、彼のうすぼんやりした叙情性と、変質的な狂気がときおりみせる静謐ぐあいが並列しているようで、名伏しがたい。ほんとうにすごいとおもう。イントロなんてピアノをポンポン等間隔に鳴らしてるだけだぜ。だれもこんな曲つくれない。どんなにAIが発達したり、音楽の専門化が分析しても素材が朴然としすぎて「なんでこんないい曲なんだ」って、原因はわからずじまいだとおもう。
スマパンみたいなストリングスの入り方だな、とおもった「破顔」は単純にいい曲だとおもった。「LET'S GET IT ON」みたいなのは、さいきんのフジのイメージでファンク系というか、どことなく偏屈な志村感もある気がする。「東京」もファンク感あるけれど、ネオンの翳の物憂げな息遣いが聞こえるようでとても好きです。そういえばあまり音程を上下させないようなメロディは志村っぽいさがある気がする。「Feverman」や「前進リバティ」みたいな奇を衒っているかんじのおまけソング感もフジファブリック感ある。あと山内総一郎はディストーションの効いたきたねぇソロを弾かせたらまじで天下一品だとおもう。
金澤ダイスケのポップネスはすげぇとおもう。おれは「クロニクル」というアルバムも好きなのだけれど、あれの立役者は金澤ダイスケだと勝手におもっている。あのアルバムで志村の直球のロックサウンドをフジファブリック風味にしているのはかれの鍵盤フレーズだと個人的におもう。「恋するパスタ」は、そんなかれのポップネスがぎゅっと濃縮されて水際立っている。この人は志村とはちがった大衆性を持ち合わせていて、超いい作曲者だとおもう。あとやっぱ山内総一郎は他人の曲のほうがギターが生きる。かっこいい。
「High & High」もクロニクルっぽくて、そのときのフジっぽい。志村は歌が下手糞で、子音を置いたあとに、母音で音程を合わせるような歌い方をしているような気がしている。井戸から重く水を引き上げるかのような、無理やり引っ張り上げるような音程のあげかたとか。そういうふうな志村味も入っているような気がして、おれは今のフジファブリックが、ほんとうにフジファブリックというバンドを好きなんだな、とおもってしまう。ちなみにおれはフジファブリックを歌うと口元が志村になってしまう。口角下がるかんじ。
もちろんかれらが再始動したときの「エコー」という曲は、音楽的というよりも一介のフジファブリック好きとして、聴くべきものがあった。ちょっと泣く。しかしそれ以降のフジファブリックについては、肯定的な感情が芽生えなかったのが正直な気持ちである。
しかし、この「F」を聴いて、おれは今のフジファブリックが好きになった。彼らはずっと志村と共に生きているのだとおもった。フジファブリックでいつづけることは、自分たちらしい曲を創るよりも難儀なことだとおもう。でもそれってかっこいい。彼らがフジファブリックであり続ける意味がわかった気がしたアルバムでした。
映画「オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分」は、ほぼ水曜どうでしょう
こないだ、大泉洋氏が拙宅のテレビジョンに受像されていたので、拝見していると、なんと大泉氏はヒゲをたくわえていらっしゃる。おまえがヒゲを生やしたらややこしいだろう! と細君と笑いました。とても素敵な夜でした。
「水曜どうでしょうのおもしろさがわからない」という人の言は、すこしく理解できる。旅番組と惹句しながら番組の大半は車内の映像である。詐欺だとおもう。人間を馬鹿にしている。だいの大人がすることじゃない。
けれどもおもしろい。おれはおもしろいとおもう。好きである。魅力がある。パンチがある。車内の映像や、おっさんがカブに乗って走っているだけなのに。すごいとおもう。革命だとおもう。ブラボーだとおもう。
映画「オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分」は主演のトム・ハーディというコーカソイドが、ただただ車中の人となり、ハンドフリーの電話で会話しながら、高速道路をひた走る、という演出陣の独善的な革新性が冴える、たいへんマニアックな映画である。おれはこの映画、とてもおもしろいとおもった。
オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分(字幕版)(予告編) - YouTube
以後はちょっとしたネタバレの感想になってしまう、とここでひとつ警告しておきたい。しかし、この映画にネタバレがあるのか、というと「あるけどたいしたもんじゃない」とおれは個人的におもう。そういう物語をおもしろがるタイプの映画ではないとおもう。
なにがおもしろかったのか、というと、ストーリーに場面なんていらないんじゃん! と思えたところである。
主人公のアイヴァン・ロックは、不義密通相手の出産に向かう。ヨーロッパ最大級のコンクリート工事という仕事を放擲し、さらには息子とのサッカー観賞をも反故にして、ただただ己の信念のために、高速道路を疾駆する。
工事は部下に任じた挙句に会社は解雇され、そのうえ事情を説明した妻からは絶望されてしまう。駄目なやつじゃん。いや、アイヴァンはそうはおもってない。ここで不倫相手の出産を見なかったことにするほうが、自分が駄目になってしまうとおもったのである。男とは勝手な生き物である。
もし仮に。これをシーン別に、場所を分けて演出したとする。はっきり言って、とんでもない三文映画である。描かれた内容は、仕事、家庭、信念。ちょっとありきたりすぎる。脚本代二十円である。そんなもん見るくらいならトレマーズ*1でも見ていたほうが人生が有意義である。
「オンザハイウェイ」はそういった視覚で胡麻化しのきく映像を使わず、主演男優ひとり。車。高速。電話。これらオンリーで物語をすすめてしまった。小賢しい場面展開なんていらんのじゃ。
文学にも戯曲という形式がある。場面は提供されるが、細やかな描写などなく、その内容はほぼ会話文である。それでも登場人物の喜怒哀楽は表現されるし、どういったしぐさをしているのか。どういった表情をしているのか。会話の相手がなにを思っているのか。それらはちゃんとわかる。
ファンクの基礎を作り上げた帝王ジェームス・ブラウンは、コード進行などとっぱらい、ほぼワンコード。ノリ*2とリズム*3とパッション*4でカッコいい音楽を作り上げてしまった。音楽においてコード進行とは空間を支配する。でも、それがなくてもファンクは音楽としてカッコいい。
水曜どうでしょうも旅番組なのに、旅先という旅番組におけるもっとも重要なファクターをなおざりにし、その「移動」に焦点をあててしまった。移動という日常ありふれた時間軸に番組を落とし込むことによって、車内の会話を光らせた。ここで大泉氏は「友達にいるすげーおもしろいやつ」の役割を果たし、いまでは八面六臂である。
かといって「オンザハイウェイ」が映像を等閑視しているかというと、そんなことないとおもう。とても美しい。漆黒の夜のハイウェイ。フロントガラスに反射する七宝のごときぼやけた光の玉。それらがネオンに実像を結ぶ瞬間。アイヴァンはなぜ今の幸福をなげうってまでその行動に駆られたのか。誰もいないはずの後部座席。アイヴァンが闇夜にうかべる幻影。もう引き返せない一本道をカーナビが機械的な配色がうつしだしていた。蓋し象徴的である。
映像展開のない映画。だからこそ、「オンザハイウェイがつまらない」という意味もよくわかる。演出陣営のひとりよがりの革新性だ、という意見もあるかもしれない。けれども、おれはこの映画から「ありきたりな脚本でも見せ方によって化ける」というようなことを学んだ気がする。
あとアイヴァンはかっこいいとおもう。不倫をする人間は屑だが、責任のある男だとおもう。狷介不羈なとこもあるけれど、それが男の歩む道である。サムライだ。ラストの息子との会話は比喩的でとてもよかった。なかったことにするのも大事だけどな。ちなみにおれはテレビジョンに大泉氏が出てくると、友達がテレビではしゃいでいるみたいで、すこし恥ずかしくなります。わかりますか? この気持ち。
髪をすこし短くした。失敗した
シドヴィシャスのごとき髪型をしていれば、あ、このひとはパンクロックを聴くのだなとおもうし、ブチャラティのごとき髪型をしているひとはモード系の服飾を装備しがちだなとおもう。ソフトモヒカンのひとはきっとでかいうんこが出るのだとおもわれる。
畢竟。髪型というのはそのひとの趣味思考、あるいはライフスタイルなどが顕在化してしまうのである。丁髷頭を叩いてみれば因循姑息な音がする。総髪頭を叩いてみれば王政復古の音がする。散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする。ほらね。昔のひとも言ってる。
しかしあろうことか、貧乏母子家庭に生まれそだった因果から、日々口に糊することで精一杯であったがために、なんの政治的思想も持ち合わせず、とうとう齢三十二を越えてしまった悲しいゆうちゃんの髪型は、まぁ、なんてことでしょう。すさまじき蓬髪が爆裂しているのである。
これではいけない。おれもすでに二児の父である。がんばって生きよう。立派に生きよう。なんの恥ずることをなくして生きていかれるようにしよう。今日からさぁ。ということで、一〇八〇円(税込)を握りしめ、千円(税抜)カットに向かったのである。
入り口のメカに千円と税金を流し込む。切符がでてくる。待合の椅子にはナンバーが振られている。おれは三番の椅子に座し、そのときが来るのを待った。
昔のひとは髪結いを待ちわびるさい、床に座して将棋をさしたり、速記本を眺めたりしたというが、そんな呑気なことをしていられない。そうおもったのは、三人いる散髪職人のうち、ひとりの様子がどうもおかしいのである。
歳のほど五十がらみの男性。眼光には淀んだ光がぼんやりとしている。その眼光で見ているのは客の頭髪ではなく、ガラス越しの往来である。あっぶねーの。のったりのったりとした挙動は胡乱極まりない。そしてなにより「まずオマエが髪切れよ」と諌言したくなるような白いものの混じったきたない茶髪のロン毛であった。
このひとに当たったら「終わる」とおもった。やばいとおもった。ひとりの散髪がおわり、ひとり椅子を空ける。おれは席をつめる。今度は二番である。また散髪がおわる。ひとり理髪台にすわる。なるほど、この調子でいくと、おれはあの不気味な男に髪を刈られることになる。なる、ってゆうかなった。おれを呼んだのはあのルンペンのごとき男性であったのだ。
前髪は眉上。耳が出るように。全体を整えつつ後ろを梳いて呉れたまへ。というのがおれのオーダーである。不気味な男性は「あいあい」と、こちらに聞こえるような聞こえぬような返事をして「……プレストフィナーレ」なんてぶつくさひとりごち、櫛と鋏を構えたのである。
もしかしたら今日死ぬのかもしれない。相手は狂人。しかも刃物をもっている。きちがいに刃物。いつ発狂するかわかったもんじゃない。なにかスイッチが入ったばあい、手にした鋏でめった刺し。これは新聞の一面になるぞ。それとも嵐にかき消されてしまうのだろうか。さすが嵐。おれの死なぞ、だれの興味もそそらないのである。無念。かなしい末路であった。
しかし狂人は発狂のスイッチがはいることなく、髪を切る。ただちょっと髪の切り方がおかしい。クランチのテレキャスくらいジャキジャキ切っていく。おれの過去のデータに基づけば、髪というのはそんなジャキジャキ切るものではなく、すっすっすっ、とこう軽やかに切っていくものなのである。
櫛でたばねた髪を一切の迷いなくばっさり切っていく。迷いのない刃。藤沢周平の世界である。かっこいいとおもう。男だとおもう。けれども当事者としては、もっとこう繊細に切ってほしい。だが、もし仮にそれを忠告したばあい、相手は狂人。逆鱗に触れ、おれは殺されてしまう。袋の鼠である。
仕上がった髪はアシンメトリーといえば今様であるが、左右がちぐはぐであった。遠めにみれば、それほどでもない。だから鏡を前に仕上がりを確認するときは、「だいじょぶです。ありがとうございます」なんて言ったが、帰って仔細に検討してみると、どうも雑然としている。
もちろん、あのとき気がついても言えなかっただろう。だって言ったら死ぬし。なんだかいびつな和田アキコの髪型のようである。髪型は思想を反映するが、これはおれの意思ではない。だからそういう場合もあるとおもう。そういえばおれは幼少の砌、前髪と襟足だけを伸ばされたいわゆるヤン毛ボーイだった。ずっと悲しい髪型の人生なのか。悲しい人生である。
THE 1975「ネット上の人間関係についての簡単な調査」
「人を好き嫌いで判断するな」とおっしゃるのはずいぶんと独善的な合理性だとおもう。人を好き嫌い以外で判断するほうがむずかしくないっすか?
なのではっきり言っちゃうが、おれはヴィジュアル系が嫌いです。そういう言うと、たまにV系の道楽ものたちから「V系は音楽もすごい。ディルアングレイは世界で通用する日本のバンドだ。すなわち、お前は音楽の良し悪しがわかってねぇ」とか言われ人権を奪われる。すごい敵愾心である。
しかし世界に通用する日本のアーティストというジャンルを見てみると、上記ディルアングレイ、ベイビーメタル、パフューム、初音ミクなど、音楽そのものよりもむしろショウビズ的「見た目」が骨子であるような気がしてしまう。音楽だけで言ったらMONOくらいじゃないのかしら。
たしかにロックの歴史を省みてみると、その本質は音楽そのものとおんなじくらいの割合で、視覚的なエンターテインメントに分がある気がする。だから上記のような「見た目」的な演出をしているアーティストが世界で活躍するのは、とても「ロック的」であるとおもう。
だから「見た目」は超だいじです。でもおれはイケメンが嫌いです。アイドル的バンドが嫌いです。でもTOKIOは好きです、人が。もっとこうサンボマスターとかTHE50回転ズみたくしていてくれよ、と思ってしまう。だからTHE 1975というバンドにもあまり良い印象はなかったのである。
けれども2018年の暮れちかくに出した「ネット上の人間関係についての簡単な調査」という三枚目のアルバムがすさまじく良かった。好きです、とても。
じっさい彼らがアイドル的存在なのかはよくわかっていない。そんなに1975の動息を追っていないからである。なんとなくマスメディアじみた売り方が気に入らなかったのだとおもう。じゃあなぜ聴いたのか? というと、サブスクの新譜にあったからである。
「ネット上の人間関係についての簡単な調査」は静かに圧縮された抒情的なポップだとおもう。打ち込んだデジタルな音色が水際立っているが、最新の技術で八十年代ふうのレトロな曲調を演じているところにすこぶるエスプリが効いている。この書き方。なにを言っているのかよくわからない音楽ライターふうです。気障である。
作品を仕上げるときに「つくろう!」と気力をもってつくる場合と、「なんとなくできちゃった」という場合があるとおもう。本人たちにどのような企図があったのかは存じ上げないが、おれはこのアルバムに関しては後者であるような気がする。そこが好き。
ファズめいたリフレインがポップな「Give Yourself A Try」。このリフが延々とリピートするのだけれど、ふと忽然と止む。そのあとまたリフが立ち上がるのだけれど、それを聴くとやはりアレンジとは引き算なのだなとおもう。勉強になります。
アルバムが全体的に打ち込みなアレンジがおおく「TOOTIMETOOTIMETOOTIME」も同様なのだけれど、仰々しくないところが好き。静謐さがあるとおもう。めっちゃポップなのに森閑と叙情的。芸術的とはこういうのを名伏するのかもしれない。
ポップが好きなおれでもくどくどしいのはちょっと年齢的にきつくなってきた。このアルバムが、いい歳こいてロックなんかを聴いている大人に受けるのは「How To Draw / Petrichor」や、しゃべりの録音「The Man Who Married A Robot / Love Theme」みたいな曲が要所に挟まれているからなのかもしれない。いわゆるバランス。そしてなによりアルバムという単位で聴きたくなる。
「Love It If We Made It」や「I Like America & America Likes Me」はボーカルが熱を帯びていてアッパー。なのにトラックが洒落てる。重々しくない。大袈裟ではない。すこぶる瀟洒。オーセンティックなブリティッシュアダルトが濛気している。
叙情的なトラッドなアコースティック「Be My Mistake」、アコースティックで言えば、スリーフィンガーの「Surrounded By Heads And Bodies」もすごく好き。やわらかな陽射しがカーテンを揺らしているような雰囲気なのに、中途のモーダルインターチェンジ感がふいに心を曇らせる。
「Sincerity Is Scary」なんてのは色気がヤバイ。ふだんこういう曲をあまり聴かないけれども、アルバムに挟んでくるといいなとおもう。コーラスラインがとても黒い。R&B感。たいして「Mine」はジャジーなピアノが日常からぽろぽろとこぼれてくるかんじ。ラッパも洒落てる。エロくない大人のかんじ。日常映画のようなふわっとした色彩の曲。
「Inside Your Mind」のような壮大なバックグラウンドに溶け込んでいる歪んだギターを聴くと、汚らしいものだった筈のエレキギターディストーションは、いつのまにか美しさを表現するようになったのだろうとおもう。
おれは「It’s Not Living (If It’s Not With You)」って曲大好き。アルバムの白眉である。だってめちゃダサい。レトロポップである。メロディが古くさい。完全に80年代。デュランデュランかよ。だけれどメロが強い。そしてなによりも愛らしい表情がある。懐古するということは、現代の視点があるということである。そんな回帰をモダンに圧縮したのという感じ。すごく好き。そういや「I Could’t Be More In Love」。これもメロディが古い。なのに洒落てる。垢抜けてる。
掉尾を飾るのは「I Always Wanna Die (Sometimes)」という曲だけれど、もっともロックバンドじみているとおもう。好き。
そんなことあるまい! と峻烈な批判をうけるかもしれないが、おれはくるりというバンドの「THE WORLD IS MINE」というアルバムを思い出した。デジタルなのに寂寞としているふうなところが、おれのなかで吻合したのかもしれない。きっと何度も聴くアルバムになるとおもう。
- アーティスト: THE 1975,マシュー・ヒーリー,ジョージ・ダニエル,ロス・マクドナルド,アダム・ハン
- 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック
- 発売日: 2018/11/30
- メディア: CD
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ハーゲンダッツ株式会社様「リッチミルク」をレギュラー化してください
「おれがダサいんじゃなくて、こんなTシャツを作ったやつがダサい」と、ダサいTシャツを着た人は言うけれども、まったく情けない遁辞であるとおもう。じゃあお前はサーティーワンに言ってバニラを注文するのか? と詰問したくなる。
だってそうじゃないっすか。サーティーワンには絢爛豪華なアイスが星の数ほど存在している。そのなかにはバニラアイスをグレードアップさせたようなものもある。それなのになぜノーマルのバニラを注文するのか。
言い訳めいてしまうが、おれはここでサーティーワンでバニラを注文することにケチをつけたいわけじゃない。むろんバニラはうまい。ときおり無償にバニラを食いたくなるときもある。アレルギーの関係でバニラしか食えないひとも居るかもしれない。
しかし、そういった事情がある人間以外がバニラを注文することに、おれは鼻白んでしまう。リアル貧乏をしているので、カネのことをうんぬん言いたくはないが、だってぜんぶ同じ値段だぜ? だったらさまざまなデコレーションのされている、もっとすごいアイスを食ったほうがお得であろう。
おれが今なにを言いたいのかというと、アイテムの選球眼。これを磨くべきである。ダサいTシャツを選んでしまうこと、それすなわちTシャツの選球眼が拙劣なのである。そしてサーティーワンでバニラを注文することは、アイスの選球眼が鈍くさい。なによりも人生で、もっとうまいアイスを食うチャンスを逃してしまい、人生が悲しいものになる。
そんな折、ハーゲンダッツ株式会社様がリッチミルクという商品を開発した。期間限定である。しかしこれは罠である。おれはそうおもった。だってシンプルすぎる。
「期間限定」という惹句を人質にとり、人びとの購買意欲を扇情しようとしている広告の悪魔的発心である。おれはそういう具合に感情のそろばんをはじいた。だが、おれが間違っていた。ほんとうにすいませんでした。
ハーゲンダッツでいちばんうまいのは「マカダミアナッツ」である。もしくはその期間に発売されている企画物、ソルティバターなんちゃらやら、きなこなんちゃらやら。これがハーゲンダッツを食う目的になっている。
ときおりグリーンティーなども食うが、もちろんうまい。コクがね。だがアイスの選球眼が磨かれている消費者にとっては、かような素朴な品種よりも上記の豪奢な季節モノのほうが、とてつもない蠱惑的パワーをかもし出しているようにおもわれてしまう。
だから、たといリッチにしようが「ミルク」のみに光を照射したリッチミルクなんぞには、これっぽっちの魅力も感ぜられぬのである。これがもし「エッチミルク」であれば男性的本能としてすこしたじろいでしまうが。この一文は忘れてくれ!
だが、なにを血迷ったか、おれはひょんなことからリッチミルクを食ったのである。心の底から言う。超うまい。芳醇なミルク感が馥郁と鼻腔に舞い上がる。とても濃厚。だが、それだけで終わるハーゲンダッツではない。なぜかさっぱりしているのである。
牧畜として乳牛を家畜するが、乳牛のそだつ高原に吹きつける、さわやかな一陣の風が吹く。まるでアルプス。アルプス食ってるみてぇだ。草原の若草色と、天まで見透かせそうなすきとおった蒼穹。そこに浮かぶ雲が一朶と、脳内に幻影されるほどの颯爽感があるのである。
おれはリッチミルクのこの「さわやかさ」がすごいとおもう。すごいってゆうかヤバいとおもう。むろんこの濃厚さには端倪すべからざるところがある。しかし、濃厚というだけであれば、或る程度どのアイスでも千篇一律なんじゃないかしら。
ハーゲンダッツの企画物のなかでも、シンプルに特化したリッチミルク。こんなもん食われるかえ! となめくさり、磨かれたアイス選球眼に油断していると、じつに人生を悲しくさせることになる。このミルクの芳醇と爽快を味わえるのは、いまのところリッチミルクだけである。期間限定を解除して、ぜひともレギュラー商品化させていただきたい。そうおもいたち、拙劣な文章で本稿を書き上げたのであった。
Cloud Nothings「Last Building Burning」
スティーブ・アルビニというとおれのなかでは「イン・ユーテロ」よりも、モグワイの「マイファーザー・マイキング」という一曲である。というのもスティーブ・アルビニという人をはじめて意識したのは、二十分という長尺のドラマチックなこの一曲だからである。
ナイジェル・ゴッドリッチと小林武史の次に耳にするプロデューサーが、おれのなかではアルビニさん。特定のバンドの顧問プロデューサーというかんじではなく、たずさわった作品の印税もうけとらず、いわゆる取っ払いでプロデュースするイメージ。山に篭って仙人みたいな生活してて、世俗との付き合いを一切しなそうなかんじ。でも知的でなにかすこしでも癪にさわることを言ってしまうとめちゃめちゃキレそう。
どういうプロデュースをするのかというと、一言で言えば、暗くて美しいパンクだとおもう。この人がプロデュースすると、とにかくアルバムに翳りがでる。荒々しくて、凶暴で、生生しいのだけれど、なぜだか人心の闇の淵源を覗き見させられている気分になる。太宰治が好きなひとはアルビニ好きな気がする。
クラウド・ナッシングスというアメリカのバンドの二枚目「アタック・オン・メモリー」は、まさにおれのなかのスティーブ・アルビニ像にぴしゃりと吻合するアルバムだった。退嬰的で内省的で超美しい。なんというか瀟洒で詫び寂びがある。芸術的です、はっきりいって。
おれのなかでポストパンクというジャンルは、張り詰めていた糸がぷっつり切れてしまって、部屋をめちゃくちゃにするほど暴れまわったあと、その嵐の惨劇場に森閑と佇むやる瀬無さ。これがとっても大事だとおもう。
そういったかんじがアルビニによってより鮮明に、狂気的に録音されると、きほんてきにすごいアルバムが出来てしまうのではないかしら。その最たるものが「イン・ユーテロ」なんじゃないかな、なんておもったりする。
でもクラウドナッシングスの五枚目の新譜は、ぜーんぜんそんなかんじではなかった。めちゃくちゃパンク。オルタナ? よくわかりません。とにかく漲っている。二枚目のような美しさはないけれど、逆にそこがよかった。ってゆうかこのバンドそもそもメロが良くて好き。
上記にポストパンクのイメージを写したけれども、おれのなかのパンク像はただ部屋のなかで暴れまわっているかんじ。とてもシンプル。アタックオンメモリーのような重さが無かった。松尾芭蕉風に言えば侘び寂びの果てに「かるみ」を得たとでもいうべきだろうか。
おれはすこしデジタルな音楽が苦手なので、こういったアナログで、粗暴なバンドがまだ聴けるのはとてもうれしい。好きなアルバムになりそうです。