まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

「良い親」は子どもによってではなく世間によって作られる説

過日。家路に向かう電車。すこし混み合っていた。そこへ、ベビーカーを利用した親子が乗車してきた。子どもはおそらく生後2年に満たない、まだ稚い嬰児だった。私はふくざつな思いを胸裡にいだいた。

 

「こんな混み合う時間にベビーカーを利用するなんて、のっぴきならぬ事情があったのだろう 」と人の親である私は思った。しかし一方で「ちょっとどうかと思う」とも思った。一事が万事と言う。100人のうち1人でも満員電車にベビーカーを利用すると、世間から子育て世代が非難をあびるので避けたほうが良い。と思った。抱っこ紐を使っている人口のほうが多いのに。

 

そして私は、保護者とおぼしき女性の対応に違和を感じた。

2歳児くらいなんていまだに人ならず、獣性のほうが強い。法や秩序などわからぬうえに、言葉もまだ判然と理解できないでいる。そんな2歳児にひどく癇癪をおこし、当たりが強かったのだ。すこし愚図るだけで「静かにしなさい!」と口吻熱くしていた。

 

きっと、車内の静謐な雰囲気を破壊したくない、というのが建前だろう。しかし私は本音がべつにあると思った。つまりそれは「注意しないと親としての資質を疑問視される」ということ、だと思った。

 

ここで諫言しなければ「なにしてんだよ」「うるさいよ」「だまらせろよ」と、車内にいる人びとの鬱憤が蓄積する。しかし保護者本人はわかっているはずである。この年齢になにを言っても無駄だ、ということを。しかし愚図る子をあやすだけでは「注意もできない馬鹿者め」などと思われるだけである。

 

だから「静かにしなさい」と言う。その言葉が虚空に消えるとしても。周囲にいる人びとに「無責任な親だ」と思われないように虚勢としてポーズをする。諌める言葉をちゃんと投げかける親として。それが無駄だと思っていても。世間のもとめる「良い親」に近づくために。

 

個人的にも思い当たる。近隣のキッズと、我が命脈の果ての息子が遊戯する。愚息は2歳でイヤイヤ期という症候群を含有している。そうすると諍事が勃発する。

 

私は正直、ほっときゃいい、と思っている。2歳後半の息子と、同年代のその女傑はなんとなく二人で解決できるんじゃないかな、と思っている。そばで見ていればいい。そのほうが成長を促すんじゃないかな、と思っている。で、にっちもさっちも行かなくなったら親が助太刀すれば良い。と思っている。

 

しかし、相手の親もいる手前、なにか紛争が起きたらすぐに駆け寄り、指導警告をしなければならない。なにかあったらすぐ駆け寄る親。これがちゃんと子どもを見ている「良い親」というものである。だからそんな「良い親」になるために私も駆け寄る。

 

「良い親」とはなんなのだろう。と思うことがよくある。それは「子どもにとって」という前置がつくのか。「良い子」というのには「親にとって」という前置がつくことは知っている。しかし一般的な「良い親」という認識は「世間にとって良い親」という意味なんじゃないのかな、と思った。

 

少子化ということばがうすぼんやりと日本の国土に滞留している。その弊害はまだ大きく顕在化することなく、ちいさな「親の生き辛さ」として発泡して消えている。ベビーハラスメントという記事を見て、そんな念慮をした。

 

みんな子育てすればいい。そんな暴論を敢行してしまえば、世の中の「良い親」の認識は変わるんじゃないのかな、と思った。私は「良い親」というものの主語が「親」であるかぎり、前置は「子どもにとって」だと思う。

「良い親」をやめれば 「生きる力」を持つ子が育つ

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