ある日のこと。私がドクターペッパーを痛飲していたら、妻が「よくそんなもの飲めるね!」と言った。私は震駭した。それはあきらかな侮蔑を含んだ嘲笑だった。
妻はドクターペッパーが飲めない。まずい、と思うからだ。彼女の胸裡には「私がまずくて飲めないものを飲んでいるコイツは脳か舌の感覚がおかしい。ふっ… 腐った人間だ」という愚弄の心があり、というか「私がまずいと思うものは人類全体的にまずいもの」というふうな傲岸不遜な意思、驕慢な心があった。だからこそ「よくそんなもの飲めるね!」と言ったのである。
私は憤慨した。「ふざけるな!」と言い、ちゃぶ台をひっくり返した。ちゃぶ台には茶碗や汁椀、洋食器。それらのうえには麦飯、うすい味噌汁、お菜があったが、それらは中空を舞って、破れ腐った畳の上にぼとぼと、ばしゃっと落ちた。ぶらさがった裸電球はゆらゆらと揺曳して、舞い上がった埃を照らしていた。
仕方がなかった。これは私の生得的な癇癪でもあるのだが、一家の大黒柱の威厳や尊厳、それらはいまの日本で失われた、これらを守るためだったのだ。
私は気をもんで、向こうの部屋へうつった。ふすまの隙間から、妻がそれらを片付け、泣く子をあやし、しぼったぞうきんで地を這いながら畳を拭く大きな臀部の後姿をみて、とてもやるかたない思いを抱いた。すこし、死のうと思った。というのは、まぁ嘘ですが。
でも妻が私の味覚を愚弄したのはほんとう。「よくそんなもの飲めるね!」と言って私が飲んでいたドクターペッパーを暗に中傷したのはマジ。
こんな大言壮語を吐けば、俺のブログは炎上するだろう。だが、それがどうした。俺は言いたいことを言うんだ。そのための個人ブログだ。だれの干渉もうけないぜ。ロックンロール。だから言う。ドクターペッパーをまずい、というヤツは、脳の神経か舌の感覚が麻痺している。もしくはその両方である。
なぜならば、ドクターペッパーには歴史がある。アメリカで発明されたこの炭酸飲料は一八八五年に誕生している。それまでアメリカではドクターペッパーが途絶えることはなかった。あのフォレスト・ガンプだってドクペを飲んでいた。ほんとうにまずい、と思う人間が多ければ、こんなに歴史を刻みますか?
これだけずっと愛されているのは美味いと思う人間のほうがおおいのであって、だから逆に「まずい」と思う人のほうが味覚的には不良であって、彼らが「薬みたいな味」と形容するその味の深みや、軽やかに舞い上がるさまざまな果実風味がわからないのである。迂愚なやつらである。
そういうと反駁する人間が出てくる。「日本人には合わないのだ」と。きみたち、そんなことを言っていると、この二十一世紀の国際社会についていけませんよ? だいじょうぶですかTPP? WTO、EU、PKO、IMF、ASEAN、SECOM入ってますか?
過日。私はコストコに行った。コストコに行くとアメリカ人になってしまいますね。そこで三十缶のドクターペッパーを日本通貨にて購入した。たしか千六百円くらい。そうして、私はことあるごとにドクペを飲んでいる。
プルトップを立ち上げると、真空がはじける。小気味の好い開栓音が鳴る。同時に霊気のようなものが昇る。しゅわっと炭酸の踊る音がする。破裂する飲料水からの香気は、それはそれはもう芳しくて仕方ない。あまくて、でもどこかさっぱりとしていて、果実味のある、ふしぎな薫り。
ひとくち含めば、仕合せの黄鐘が鳴り響く。あぁ、甘露である。その糖味は舌のうえで弾け、そして爆発的に口腔内で広がる。荒々しくも繊細に砕け散っていく果糖の絶妙なバランス。その炭酸の切れもまた適度なフレッシュ感を与える。
喉を通る瞬間には、鼻腔にまでその香気が立ち上り、20種類以上のフルーツフレイバーから醸される、虹色に煌く幸福はいつだって表情を変えて襲ってくる。そうして脳内にアドレナリンを分泌させる。滋味である。佳肴である。
炭酸飲料の味わいはそれぞれ一長一短なところがある。やはりコカコーラはキレが好いし、三ツ矢サイダーはその糖味において勝るものはない。ファンタのさまざままなフレイバーには飽きが来ない。しかし、その炭酸飲料のすべての良い部分を合致させると、ドクターペッパーができあがる。
ドクペとはそういった炭酸飲料の神的な位置におわしている。神の飲み物。頂上の炭酸飲料。くそうまい。一生のんでいたい。