まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

にんじんを生で食うとうさぎの気分になるピョン

 今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」

 

 あたらしい発見をしたので日記を記載したい。それはにんじんを生のまま棒状にして食うと、なんだかうさぎの気分になる、ということである。

 

 ポイントはこの棒状ということだとおもう。その新鮮な食感がひとをうさぎにさせる。奥歯でかみくだけばよいものを、なんとなく前歯でぽりぽりと齧りたくなってしまう。

 

 うさぎの血族には明るくないので種類名はわからないが、うさぎは大きく分けて二種類いるとおもっている。耳がぴんとしているやつと耳が垂れているやつだ。

 

 個人的な嗜好をたれながしてしまって悪いナァとおもうが、耳がぴんとしているうさぎが好きだ。だから俺はうさぎになるなら耳がぴんとしているヤツがいいな、とおもう。

 

 しかし、俺のなかにはいつも犇めく黒い塊のようなものがある。劣等感というものだ。俺はいつもこの劣等感にさいなまれ、なにをするにも自身がなく、人の暮らしを見て「いいなぁ」と指をくわえる人生をおくってきた。

 

 その劣等感を考慮すると、俺が耳がぴんとしているうさぎがいいナァと思うのは、じつは俺自身が耳がぴんとしていないタイプのうさぎだからで、俺の垂れたこの耳が劣等感がゆえに、耳がぴんとしているうさぎがいいナァと思うということではないだろうか。

 

 つまり俺は耳が垂れているうさぎなのだ。うさぎとしてはこんなに悲しいことはない。ときおり、この垂れた耳がかわいい、と言ってくれる人もいるけれど、俺はこの垂れ下がった耳が劣等感なんだよ。あるくと地面につくし。地面につくと汚れる。

 

 なによりイヤだナァとおもうのは、語尾の「ぴょん」が使用できないことだ。やはりうさぎの「ぴょん」は耳がぴんとしているうさぎが言うのがしっくりくる。跳躍感がある。

 

 しかしわれわれ耳垂れのうさぎは、なんだかイメージ的にも愚鈍でのろまな感じがある。畑を荒らしているとすぐ人間に捕まる。抱え上げられてもにんじんを咥えたまま、素っ頓狂な顔をして「なにがおきたんだぁ?」と愚鈍な思惟をするにちがいない。

 

 こんなのろまな耳垂れうさぎの俺が語尾に「ピョン」をつけたところで、なんの説得力がありますか。世の中は説得力で回っている。なにをいうか、よりも、だれがいうか、が重要視される世の中で、俺が語尾にピョンをつけても、こののろまな亀め! と罵声をあびるに違いない。遣る瀬無い。うさぎなのに。なんでおれは生のにんじんを食うだけでこんな悲しい目にあわなきゃならないのか。