まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

でかいカマキリ

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 息子とさんぽしていると、でかいカマキリを発見した。たぶん天地開闢爾来、三番目くらいにおおきいカマキリだった。新種、というわけでなく在来種だとおもう。遺伝子的変異、もしくは飽食によって巨大化したものだと思われる。

 

 それに目を注ぎ、忽然と三歳児が言った。

「父上はこの昆虫を捕縛可能か」

「可能だ」

私は言下に答えた。しかし内心では渦巻く恐怖に気おされていた。

 

 いつからか昆虫がこわくなった。もしかしたらカマキリへの畏怖はバキというコミックスによって養われたのかもしれない。しかし昆虫ぜんぱんに恐怖を感じる。夏とかセミ超こわい。

 

 どきどきしていた。三歳児が「では捕まえて呉れ」と言うかもしれなかった。可能不可能の問答に「可能」と答えたからには「でもちょっと今日はやめておこうか」などと言えない。そこで嘘はつけない。撞着してしまう。

 

 では、なぜマジで怖いカマキリを捕獲できる、などと空念仏を大仰に嘯いたのか。これは、父親の威厳と子どもの未来、このふたつが複雑にからみあった人間の玄妙な深層心理における社会問題だとおもった。

 

 まず父親としての威厳。これは守りたい。ぜひとも守りたい。三歳児やその母親が「こわい」「無理だ」と思うことをやってのける。これが男だ。粋だ。真の勇気だ。それを父は有している。「パパかっこいい」そう云われたい。そのためなら意を決してカマキリだってつかまえる。父としての矜持。そして沽券。頭のなかではミスターチルドレンの「HERO」という曲が流れていた。

 

 しかし、なぜそこまでして、真の勇気をふりしぼってまで、この身をぎせいにしてまで、父親の威厳を保たねばならないのか。それはやはり、子どもの未来を守りたい。そう思ったゆえんにほかならない。

 

 もしここで私が「虫なんてさわれないよ、こわいじゃん」などと漏らしてしまったらこの子の未来はいったいどうなる。きっと将来にわたって「昆虫は怖いもの」という先入観をいだき、昆虫をみただけで防災バッグを手に取り、往来にまろびでる、なんてことになりかねない。

 

 なによりも少年と昆虫。こんなに夏を喚起させるくみあわせはない。男子たるもの昆虫のひとつも触れることができなければ臆病者の烙印をおされてしまう。たとえ今後、息子の人生において、虫をきらいになることがあったとしても、それはそれで構わない。だけれども、彼の夏を、日本の伝統的な夏の情景を、この私が今「虫がこわい」と云うことによって滅ぼしてしまうのは違う気がする。

 

 彼の夏を、図書館で読書、クーラーの効いた部屋でゲームざんまい、イオンでワイファイつないでポケモン、などにとどまらせないためだ。タモと虫かごと焼けた肌。虫にふれられる、ということだけで彼の人生の選択肢は宏闊と広がるのだ。

 

 だから私は云った。「可能だ」と。敢然と云った。こころに吹きすさぶ臆病風に負けることなく、そう云った。でもほんとうはこわかった。今すぐ逃げ出したかった。腕には粟粒がたっていた。ぶっちゃけ日本の夏の景観なんてどうでもよかった。でも息子の未来はまもりたい、そう思った。

 

 息子が口を開く前に私は行動に出た。「いますぐ捕らえてみせようか」と。全然へいきだけど、とる? って感じで云った。すると息子は「いや、遠慮しておこう」と答えた。一気に虚脱した私は、助かった、とおもった。

 

 上記の戦法は、とても忙しいときに上司や朋輩から「いそがしそうだね」と云われると、「いや、そうでもないけど」と云ってしまう、みたいなことに似ている。そういう人間の因業な性をりようしたもののような気がした。作戦は大成功だった。

 

 こうして私は乾坤一擲の勝負に勝った。人生の命運をわけた戦いに頭脳で勝利した。なにが勝利って父の威厳をたもつことができたことだ。父の威厳をたもつことで息子の昆虫への恐怖心は縮小し、そうなると私は、小麦色の肌に虫取りアミ、それに麦藁ぼうしという日本の伝統的な夏をまもった、ということになる。俺はこの国を守った。しかもカマキリに触れることなく。

 

 ということで、これで息子は昆虫に怯えることのない生活をおくれる。よかった。ほんとうによかった。だからもし、家の中に虫がはいってきたら息子に捕まえて欲しい。私はこわくてさわれないので。