まだロックが好き

まだロックが好き

おめおめと生きている日記

すべての武器をキスにかえて

 昨晩。息子が顔に傷をつくってねむっていた。おともだちのタイセイくんにやられたらしい。保育園でのできごとだ。新鮮なかさぶたが惨憺たるようすを物語っている。

 

 つまりこれは喧嘩の傷である。剽悍無比な三歳児だ。血がたぎったことだろう。天譴をまつよりもみずから正義の鉄槌をくだす。それが男だよ。やられたらやりかえす、という論に反駁をおぼるかたもいらっしゃるかもしれない。でもね、男とはそういう生きものなのだ。法よりも侠気で生きる。これが粋だよ。負けたって立ち向かったことに価値がある。

 

 ゆえに妻に「タイセイくんはだいじょうぶだったの?」とたずねた。妻は云った。「ようたくん、やりかえさなかったみたいよ」と。

 

 なんたる屈辱。それでも男か。泣いて踵をかえしたのか。サムライの魂はどこにいった。時代が時代ならカッティングストマックだ。「そのかわりチュッってしたんだって」と妻はつづけた。

 

 つまり事件のあらましは以下である。

 

 被害者(息子)はブロックであそんでいたところ、加害者(タイセイくん)にブロックの譲渡を申請された。被害者がそれを壟断したところ、加害者はそのブロックにすさまじく欲情したらしく暴行をくわえた。凶器はゆびさきの爪で、それを被害者の頬に食い込ませた。被害者は血煙をあげ顔面を朱にそめたが、涙でそれをながした。濡れたほほのまま被害者はだしぬけに加害者をだきしめキスをした。キスによる示談。そうして和平が結ばれた、というものである。

 

 なんだか私は魂を射抜かれたようなかんじがした。同時に、じぶんがちっぽけな人間のようにかんじた。やられたらやりかえす。それでいいと思っていた。それで解決するしかないとおもっていた。ちがった。愛だよ、愛。息子はもっと度量のでかい人間だった。寛仁大度。やっぱりワンラブ。

 

 かつてガンジーという人が非暴力をうたったらしい。マーティンルーサーキング牧師もあらぶる黒人の暴動に「暴力は根源的な解決にならない」とさとしていたし、コスタリカという国は軍備をもたず外国の侵略をされずにいる。

 

 やはり暴力は憎しみしかうまない。その憎しみはあらたな暴力をうむ。憎悪の連鎖。それを断ち切るにはラブしかない。ひとつの愛のもとにみんなで生きよう。ボブマーリーがそう云っている。それを体現しているのがキスだろう。息子がうまれて息子からいろんなことを学問した。うまれてきてくれてありがとう。

 

 知行合一。やはり脳にとじこめた知識は使わなければ皮相浅簿。ほんとうに身についたとは云わない。なるほどここはこのキスの手段を講じて世界に平和をもたらそうとおもう。

 

 会社に総務という部署がある。そこに私の大嫌いな人間が一匹いる。顔を合わせれば罵りあい、嫌味をぶつけあう。てゆうか顔もみたくないし。エレベーターで会いたくないから私は階段を使っている。つってヤツも階段を使っている。てめぇ。

 

 でもそんなことではいけない。憎しみはいつか暴力を勃発させる。おたがい怒りのボルテージは昂ぶっている。だから私は勇を鼓して彼女にキスをしてみたいとおもう。断られることはないだろう。私のほうが役職がうえだ。権力にまかせてキス。きっとうまくいく。彼女とのかんけいは平和的になる。もしそれが露見して妻におこられたら、それはそれでキス。世界はキスで平和になる。キスってすげぇや。

エクソダス+2

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