まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

足りない人生

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 産みの母が離婚しているので、おれには「父親のいない生活」というのが普通だった。ひとは自身の「普通」に懐疑をむけないものなので、これがふつうだとおもっていた。それに父親がいる生活のほうが「逆にどうなんだよ!」みたいなきもちでいた。

 

 愁嘆場を演じるわけではないが、おれの人生はいっつもなにかが足りない。しかし、比較検討すべきメルクマールも無いので、それがふつうだとおもってしまう。たとえばジンギスカンである。

 

 ビアガーデンなどに行くと、ジンギスカンパーティなどといって、死んだ羊の肉塊を眼前に、ずいぶんと不埒な宴会をしているものである。しかし、先人は言う。ごうに入れば郷に従え、と。つまり、めっちゃ空気読め! ということであって、いまも昔も生きのこる方法というのは変わらないのですね。

 

 だからおれは食った。羊さんたち、ごめんね? 斬殺のあげく焼殺とは。もう、なんて罪深きものかしら。あなたもわたしも。でもね、食うよ? じゃないとこの場で異端者あつかいされて、おれたちが火刑に処されてしまうから。オレギスカン。ごめんね? ふーっ、ふーっ、あーむ。クソうまいな! おれはその佳肴ぐあいにとても感動した。

 

 感動の澎湃。鬱勃する羊への感激を胸に、みんなこれ食ってどんな顔をしているのだろう? そんな疑問であたりを見回した。震駭した。周囲のものたちのジンギスカン鍋には「にんじん」があったのである。

 

 つまり、どういうことか? というと、おれたちに配膳されたジンギスカンは肉、ピーマン、もやし、かぼちゃ、トウモロコシで構成されており、にんじんはメンバーにいなかった。しかし、みなさま悠然と、恬然と、ふつーの顔をしながら「あたりまえですよ?」みたいなかんじでにんじんを調理していたのである。

 

 別注文かな? こころの平和を保つためにそうおもったのだが、おれは見てしまった。メニュー表、その写真機で撮影されたジンギスカンセットの真の姿を。そこににんじんは構成員として毅然たる態度を示していたのである。

 

 おれの人生はいつもこうだ。こうなんだ。なにかが足りない。足りえない。だからといって、ジンギスカン中盤のいま「にんじんが足りないのですが」と言えば、「いや、食ったんちゃうん? お客様、ずいぶんとお飲みになられているご様子ですが?」みたいなかんじになる。もっとはやく気付けばよかった。けれど、失った時間はもうもどらない。

 

 ジンギスカンは悲しいジンギスカンになった。もしかしたらなにか手段はあったのかもしれない。法的な措置をとるとか。だけど、おれはあきらめている。きっと、それがおれの人生であって、おれにはいつも「なにかが欠けた選択肢」しか与えられないんだ。神よ、どうしておればかりに意地悪をするのですか?

 

 そんなことを言うと、「そんなことよくあるわ。自己憐憫乙」みたいなかんじで言われる。ちがうんだ。おれはいっつもこうなんだ。たとえばこの椅子。みんなの椅子は坐高を調節するレバーがいいぐあいについているけれど、おれのは最初から壊れていて、そのレバー部分が欠損しており、坐高を調節するには指にはげしい痛痒をかんじなければならない。でも今言えば「おまえが壊したんでしょ?」みたいになって、あぁ! もう!!

 

 なんなんだ。おれ。ってゆうかおれの人生。でもおれってそういうやつ。きっといまもきっとなにかが足りない。たぶん幸せとか平穏とか、そういうやつ。 

今週のお題「自己紹介」