まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

己の遺伝子の優秀さと育児の正しさを子どもで証明しようとする親

 おれの母は中卒で、十代でやくざの女になっておれを懐妊し、結婚し出産の挙句、離婚してシングルマザーとしておれを育てたわけだけれど、ははは、ほんともう、尊敬するね。シングル家庭だもんね。ずいぶん貧乏したぜ。まったく無茶しやがる。

 

 きっと誰しも自分のことを「頭の悪いにんげん」だとおもう人は少なくて。おそらくFランと嘲弄されている、卒業することが逆に桎梏となってしまう大学を卒業したひとであっても、勉学で数値化できない「地頭の良さ」はある、なんて己のポテンシャルに一縷の希望をもっているんじゃねぇか、なんておもうのです。おれは。

 

 で、中卒の母。きっと彼女はじぶんを「頭の良いにんげん」だ、とおもっている節がある。そんな矜持がある。逆に高校大学を出ていないだけに「あたしはやればできる」と信じている。まぁそれはいい。それはいいんだけれど、それを子どもで証明しようとするのは、なんだか、ちがうんじゃねぇの、なんておもう。

 

 おれは小中と勉強しなくても出来たタイプだった。いまでも不思議。ってゆうか公立学校の水準が低かったのか。そのたびに母に「あたしの子だから」的な発言をされた。当時は「なるほどな、かあちゃんの子でよかった。かあちゃんありがとう。だいすきです」とおもったのだけれど、まぁきっと授業におけるおれの集中力がすさまじかった、という単純な解がそこにあるとおもう。

 

 その集中力も、おそらく母によって後天的にされたものである。ポピーという幼児教材を保育園のときにさせられていた。それが小学校中学校で爆発したのだろう。だから母のおかげといえばそうなのだけれど、結句おれはバンドマンになったし、こんな文章を日記している時点で頭の悪さは察していただいているとおもう。

 

 過日。母にまみえた。母、妻、息子、おれ。この四人で会話するとき、母は「あたしの教育のおかげです」的なニュアンスを、彼女のことばの端端に充溢させていた。そうです。ぼくと妻と息子が元気に生きているのはおかあさんのおかげです。三十一歳になりました。

 

 おれも息子には勉学で苦労してほしくない。できれば馬鹿よりは賢人になってほしい。けれど、おれがおれの頭の良さを証明するためだけに、おれがおれの育児の正しさを証左するためだけに、子どもにやりたくもない早期教育などをさせるのは、なんだか厭だな、そこに自由はねぇな、だからおれは「知育」という言葉がきらいなんだな、なんておもった。

 

 たしかパスカルのパンセに「他人のためをおもってすること、その裏側には、自分を良いにんげんだ、と思わしめようとする老獪な思想がある」と書かれていた気がする。蓋しそのとおりだとおもう。おれも因果応報なんて仏教概念を信じて、ときに偽善的なことをする。それはあくまでも利己的なものであるけれど、しない善よりする偽善。これマジ大事だぜ、とおもう。

 

 だから、子どものためをおもって教育する。それが結果、親自身の優秀さやその育児の正しさを証明するためのものであったとしても、子どものためになるのであればいいんじゃないか、なんておもうこともおもう。

 

 だが、それを恩着せがましく、えたりかしこしと「あたしのお陰でおまえは生きている」と発言されると、もちろんそのとおりでございます、とはおもうけれど、なんだか母に対する苦手意識、猟奇的な恭順がありありと浮かび上がってきて、たくさん運転しなきゃいけないのに前日の夜半「あー、あの人と会うのかー、いやだなー」つって眠れなくなったりするので、教育熱心もいいけれど、その点に留意しようかな、なんておもった平成最後のゴールデンウィークであった。

 

今週のお題「ゴールデンウィーク2018」

ひらがな (ポピー式おうちでドリル)

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