まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

うどんとダンディ

 息子が生まれ幾星霜。やはり父となったら最高にダンディであるべきだとおもう。だからおれは日々切磋琢磨、最高のダンディを研鑽しているのだが、人生とは悲しいものですね。ちっともダンディになれないのである。

 

 身長や顔面の具合のように、じつはダンディは天稟にもとづいており、もしかして後天的なダンディはこの生涯で得られぬのか。ちくしょう。おれは息子に最高にダンディな父の背中をみせてやれぬのか。くそっ。うなだれ慟哭。ドンと、大地を殴ったのだが、ふと、「原因はうどんにあるんじゃないのか」とおもった。たぶん説明がひつようでしょう。

 

 おれはうどんが好きだ。三食うどんでもオッケーだし、なんならちょっとうれしい。しかし、うどんを啜る、という行為こそが、ダンディに反するものなのである。なぜか。それはうどんにおける汁飛散問題にある。

 

 うどんはその麺の形状が太めである。むろん、うどんにも種類があり、もしかしたら細めのうどんなんてものもあるかもしれない。が、讃岐うどんブームによってもたらされた、うどんに肝要な「コシ」というもの、これを発生させるために、うどんは太くあらねばならない。

 

 しかし、人生は月に叢雲花に風。うどんの太さが仇となり、麺類を食うにあたって必定な「啜りのコントロール」が、どうもうまくいかないのである。「啜りのコントロール」における重要なポイントこそが汁の飛散防止である。

 

 土曜。昼。拙宅の咫尺の間にうどん店があるので、歩武堂々とのれんをくぐった。そこでは「吉田うどん」といううどんの派生をとりあつかっているのだが、この吉田うどんというのがうどん界であっても一、二位をあらそうほどの太麺であり、これはもう小麦粉の塊状なんじゃねぇか、とおもようなとても暴力的な麺なのである。

 

 尺貫法をもってすれば、おそらくその麺幅、四分から五分ほど。その小麦粉のかたまりは、いかに人類が科学を発達させても抗いきれぬウェーブを有しており、啜るに啜れない。

 

 妻はほぼ齧って食しておった。しかしおれはダンディだ。ここでうどんを齧ることは吉田うどんに敗北を喫したことになる。ダンディは負けない。おれはダンディズムにのっとって太めのうどんを啜ったのだが、うどん持ち前のウェーブにより汁が四方八方に飛散するのである。

 

 奇しくも、そのときおれが着用していたのは白の無地ティーシャツであった。うどんの汁は味噌ベースであり、濁った茶色を油の皮膜で輝かせている。そんな汁がティーシャツに付着し、おれはまるで三歳児のような汁の飛散跡を白地に刻んでしまったのである。

 

 ださかった。まったくダンディではなかった。ダンディに薫る「大人の余裕」がそこになかった。むろん、卓上も汁が飛散しており、手の甲や顔面までベタベタで不快なかんじだった。しかも、そこまでした「啜り」であるが、あまりの麺太さにうまく啜ることもできず、ほんらいなら「ずるずるッ」と気色良くいくところを「ぼそっ、ぼそっ」なんて吸引力のない爺の蕎麦の食い方みたいなぐあいになってしまい、ダンディさが微塵もない。弱り目に祟り目とはこのことである。

 

 おれのダンディを妨げているのはうどんであった。こうなると、ダンディをとってうどんを食わぬか。うどんを食ってダンディを捨てるか。という、あまりにも過酷な取捨選択を強いられることになる。そんなことを考えていたら、その夜は飯も食えず、眠れなくなってしまった。

 

 明くる日曜。息子に「今日はなに食いたい?」と問うたところ、「うどんがいい」なんて甘言を弄する。そうか。とうとうおれはダンディをあきらめねばならない。しかし、すべてはこの子のため。この子のためらなおれは悪にでもなる。

 

 そうおもい、拙宅から車で数分の武蔵野うどん店へむかった。武蔵野うどんは麺と汁がセパレート方式になっており、笊のうえのうどんをつけ汁に浸して食う、という食事マナーが採用されている。

 

 この武蔵野うどんの麺も太めであった。なにより汁は醤油ベースで色が濃い。おれは諦めた。きっとまたティーシャツは汁に塗れ、おれはダンディのかけらも表現できぬのだ。しかし、それでいい。それでいいんだ。おれの人生なんて。この子が幸せなら、それで。

 

 そうしてなかば捨て鉢なきぶんでうどんを啜った。むろん汁は飛散する。だが、勿怪の幸いとはこのことですね。当日おれはリバティーンズとプリントされた黒地のロックティーシャツを着用しており、もうどんなに汁が飛散してもティーシャツのシミは目立たぬのである。やった。やってやった。おれはおれのダンディを守ることができたのだ。ロックンロールはいつだっておれを救ってくれる。