まだロックが好き

まだロックが好き

おめおめと生きている日記

水木しげる著「ほんまにオレはアホやろか」はロックな自伝

 柳に雪折れなし。とはいうけれども、いい諺だなぁ。すばらしいなぁ。こんなふうにぼくたちも生きていけたらすばらしい。って、おもわず「野に咲く花のように」の一節を歌ってしまいたくなる衝動に駆られるのは、水木しげるそのひとの生き方に羨望というか憧憬をいだくからである。

 

 そもそもおれも学校教育というものに疑問をもっていて、中学の受験までは一切勉強をしなかった。と、言うことができればさいこうにロックなのだけれど、ただ単純に物ぐさな性質であり、しかも環境的にだれも注意しなかったがために、そのままずるずると懶惰なライフが染み付いてしまった。がゆえ、いまこうして貧乏に苦労している。蓋し因果である。

 

 あらゆる教育機関を落第するがそんなことは一顧だにしない。いいね。そういうの。ほんとかっけぇよ。戦時下、「生きて帰ることはない」と言われた南の島に送られるが、ほうぼうのていで逃げのび、その土着的なひとびとの姿にふれ、「にんげんとはかくあるべき」という実感を得る場面では、おもわず忘れていたにんげん社会にたいする疑問を思い出させてくれた。

 

 おれはじじつ、水木しげる氏のその作品に触れたことはない。むろんゲゲゲの鬼太郎は存じている。妖怪おじさん、という漠然としたイメージしかない。あと鳥取。

 

 氏はかつてより昆虫が好きであった。昆虫の世界に弱肉強食と自然の生き方を学んだ。教科書には書かれていないことである。もし仮に、水木氏が学校教育や世の中の不文律にその足を浸してしまったらば彼の漫画の世界はできなかったのかもしれない。いや、そんな仮の空想が反故になるほど水木しげるというひとには「ありのまま」であるべきという遺伝子構造が穿たれているのかもしれない。

 

 戦後。絵を描く仕事をする苦しみや、貧乏の艱難辛苦が水木氏の手の届く生活範囲とともにスラッシュを引いたようなユーモアを含んだリズム好い文体でかかれている。氏は、ときおり「もう駄目かもしない」とくじけそうにもなるが、けっきょくそれはにんげんの作った「幻影的な社会」に対する自己評価であって、自然に生きる、という氏の人生とはただ蹉跌をきたしただけである。

 

 己自身を省みる。おれにはなんの才覚もないため、こうしてにんげん社会に身を置くしかない。にんげんのつくった時間に拘泥し、にんげんのつくった貨幣に辟易し、にんげんのつくった道徳によって鬱になる。「そんなのおかしいよ」と水木氏は言う。一九七八年に。具眼の士である。

 

 急ぐと死ぬ。ゆっくりいけば生きられる。そんなふうなことが書かれていた。そうだとおもう。にんげんに生まれたのに他のにんげんのペースに合わせられない、という星のもとにうまれても、あまり気にする必要はない。アウトローでも生きていければよい。生きものはみな、誰かのペースに合わせるなんてこと意に介さない。にんげんだけがおかしい。自己啓発というよりは、社会批判にも似たロックな自伝だとおれはおもった。

 

ほんまにオレはアホやろか (講談社文庫)

ほんまにオレはアホやろか (講談社文庫)