まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

Netflix映画「軽い男じゃないのよ」を観た。女性差別とトランスジェンダーの気持ち。

 うふふ。おねえ言葉でいくわよ。なんつって、文章や言葉には、なにげなく性別が溢れているわけであるが、そういやフランス語学には名詞に男女があったりで、おぼえるのに艱難辛苦だろうなぁ、なんておもったのは、ネットフリックスの限定配信映画「軽い男じゃないのよ」を観たからである。

 

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あらすじ 

 主役はダミアンというフランス人男性である。彼にはたぶん「女性差別をしている」という実感はないのだけれど、無感覚な女性蔑視が端端にでてくる無神経な野郎なのである。

 

 そんなダミアンが歩行中、余所見をしていたところ柱に激突し正体不明の昏倒におちいる。覚醒すると世界がなんだかおかしい。コレどうなってんの!? って、そこは男と女の立場が逆転した世界だったのである。

 

男女の差

 天地開闢爾来、筋力のある男が土木に従事し「攻め」の狩猟をおこなった。そして母性にあふれ「守り」に強い女が子どもの世話をしたり料理裁縫などをしたのである。その結果現代社会ができた。だが、ダミアンが迷いこんだ世界では、女のほうがパワーをもっているため土木狩猟に身を呈し、男が子守や料理や針仕事を担当したのである。その歴史の結果の社会になっている。

 

 つまり、ときおり男性が女性に力でねじ伏せられる。社会における肉体のパワーはそのまま権力に直結したがため、ダミアンは女性から居丈高な態度をとられたり、同衾に及ぶさい、女性からの獣性あふれるアプローチに唇を吸われ、乳を揉まれ、マウントポジションをとられたりするのである。

 

「当たり前」という諦め

 そんな世界に疑問をもちながらも、ダミアンは体毛の処理などを唯々諾々とおこなった。おれたちの世界では、女性は腋やデリケートゾーンなどの剪定をおこない、身だしなみを整えている。いっぽう男性はあるがまま、毛ボーボーの姿でセックスアピールをしている。

 

 おそらくこれは、「女性ばかり体毛の処理をするのはおかしいじゃないか!」という叫びにも似たメッセージなのだろう。しかし、ダミアンが不承不承にやっているわけではなさそうだった。もちろんダミアンという男は元の世界でも身だしなみに気をつけ、モテようと意識を練るタイプだったからだとおもわれる。

 

「女ばっかり体毛を処理するのはおかしい」というのは一理も二理もある。だが、おれが逆に女だったら、こうして諦めにも似た気持ちで「これがあたりまえなのよ」とおもって毛の処理をするにちがいないな、とおもった。

 

 しかし、かくなる「当たり前」と諦念することこそが、現代社会で女性の立場を追い込むことになるのかもしれない。というのは、ダミアンの友人が妻に浮気されるシーンがある。そんなとき男衆はあつまり「あたしもされたわ」、「でも許した」、「女なんてそんなものよ」なんて、諦めに満ちた会話で慰めあうことからも察せられるのである。

 

差別の根源

 ちなみに、ダミアンは誰にモテたかったか、というと、劇中にでてくるアレクサンドラという作家の女性である。ダミアンはこのアレクサンドラから、元の世界で自分が女性にしていた無自覚な差別的嘲弄を食らうのである。

 

 ただ、この差別が無自覚かどうかは実際のところ判然としない。しかし、その発言には企図したセックスアピールがふくまれており、言っている本人は「こんなこと言う自分が超かっこいい」、「性的にイケてる」、「オレ様サイコー」的なナルシスチックなニュアンスに陶然としているのである。

 

 あわれだとおもった。これは女性差別関係なく、自分がもっている「強い力」を誇示するためだけに傲慢で驕慢なたいどをとるにんげんが多く存在する。マウンティングというやつですね。

 

 しかし、現在の女性差別の根源は、上記の「強い力」を男性という性を持ってうまれたがために自分にはそなわっている、と思い込む拙劣愚昧な男性がいることに起因しているんじゃなかろうか、なんておもったりした。

 

女性差別とトランスジェンダーの気持ち

 女性差別なんてのはよくないとおもう。おれは男だからそういうのがあるのを感じないし、しないように気をつけているつもりであるが、「軽い男じゃないのよ」を観て、今の世界ってけっこう女性差別的なのかしら? とおもわずにはいられなかった。

 

 劇中で、アレクサンドラがダミアンをアンダーグラウンドなパーティーに連行するシーンがある。そこは男が女の格好(つまり現代社会でいうとこの男が男の格好)をし、女が男の格好(つまり現代社会でいうとこの女が女の格好)をしていたのである。

 

 そこでダミアンは自由をかんじる。というか、おれ自身も観ていて「ほっ」とした。ここが普通の世界じゃん。とおもった。あべこべの世界でようやく安心できる場所があった! とおもった。でもこれって、いわゆるトランスジェンダーのひとびとが現代社会でかんじていることなんじゃないのかな? なんておもった。

 

跋文

 ウーマンリヴ、なんてフレーズはどうも古臭く、女性解放運動、というのも今昔をかんじる。フェミニスト? まぁよくわからんのだが、そういうの。劇中でマスキュリズム運動をおこなう場面がある。これは言っちゃあなんだが、なんだか滑稽だった。

 

 もしかしたら、過激なフェミニストというのは女性の視点から滑稽に見えているのかもしれないな、なんておもったりもした。むろん女性差別はよくないが、あまり過激な運動というのもおもしろすぎてしまうのかもしれない。

 

 ちなみにおれは「ヒモ」という言葉は男性差別だとおもうから廃止してほしいし、できればヒモになりたい。家事は得意です。がんばります。