まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

「心臓を貫かれて」を読んでおこがましいけれど片親家庭の悲劇をおもった

 エミール・シオランという毛唐が「生誕の災厄」という本を出版したのがいつかは知らないけれども、その内容はとんでもない中二病感に満ち満ちており、あぁこれを多感な青春時代に読んでいたら、まともな人生を送っていなかっただろうな、とおもったことがある。いまもじゅうぶんまともな人生ではないけれども。

 

生誕の災厄

生誕の災厄

 

 

 そんな「生誕の災厄」のテーマは、いうなれば「人生の最大の不幸は生まれたおちてきたことだ」である。とんでもねぇ不届き発言である。それ母ちゃん読んだら泣くぜ? とおもいますね。

 

 しかし「生まれてきたことが自体がもう超不幸」なんていうのも、なるほどありうるな、とおもったのはマイケル・ギルモア著「心臓を貫かれて」を読んだからである。ちなみに訳者は文体になまなましい体温が感ぜられる村上春樹。

 

 ざっくりと本書の内容を説明すれば、著者マイケル・ギルモアの兄ゲイリー・ギルモアが殺人を犯した。ほぼ理由のない殺人であった。よって死刑を言いわたされるのだが、そんなのふつう厭じゃん。もっとちゃんと裁判してくれよ、ってなるじゃん。でもゲイリーはしなかった。ってゆうか逆に「疾くおれを殺してくれ」と云ったのである。

 

 なんでそんなことを云っちゃったのか。ゲイリーは気が違っていたのか。というとそんなこともない。ゲイリーはけっこう偏差値が高かったらしい。センター試験は平均八割。ではなぜそんなことになったのか。それを「血の償い」という言葉で説明していくのが本書の役割である。ちなみにこれはじっさいの起こった事件、ノンフィクションである。

 

 まぁとにかく家庭環境が悪かった。ゲイリーに殺されてしまったひとたちは被害者だが、ゲイリーも被害者であった。ミンナカアイソウ。そんなことがよどみなく諄々と書かれている。ちなみに上巻は村上春樹エッセンスがうすいとかんじたが、下巻は村上春樹エッセンスが濃厚であった。ちゃんとセックスもしてるし。

 

 著者マイケルは「ゲイリーがこんなことになってしまった淵源はなんじゃろう」とその原因を究明してみるが、無かった。そんなのゲイリーには無かったのである。ポイント・オブ・ノーリターン。ゲイリーはどうしたってこの人生を送るしかなかったのである。それは歴史と風土と家庭の因果だったのさって具合。

 

 ゲイリー、ってゆうかギルモア一家と比するのも烏滸の沙汰であるが、おれも離婚した母子家庭で育っている。母は努力してくれていたが、振り返ってみてみると、それってやっぱ不幸なことだったのだとおもう。

 

 おれ自身も時折おもうことがある。もっとマシな人生があったんじゃないか。母ちゃんが離婚していなければ、おれはもっと「ふつうの人生」を手に入れられたんじゃないか。おそらくゲイリーも、著者のマイケルも、ってかギルモアファミリー、つうか家庭に不都合のあるにんげんなら、みんなそうおもうのかもしれない。

 

 たぶんそうおもうのは、おれ自身が納得できる人生をおくっていないことが原因なんだとおもう。むろん、それはおれの責任である。でもにんげんの弱さというか、そういうのがでてきてしまって、己のプライドを守るために「もしも」を考えてしまう。

 

 おれの人生の失敗は自分が悪い。ただ、「おれの選択でどうにもならない」みたいなことも、たしかにあった。父親がいない、ということは「どうしようもない」のである。

 

 そういった「どうしようもないこと」は確実に日常に翳をおとす。それをありありと実感するのが、毎年の息子の誕生日である。

 

 確実におれの息子の誕生日プレゼントは他の子よりも少ない。おじいちゃんのプレゼント分が無いのである。そしてなにより「おじいちゃんがいないニアリーイコールふだんなにげなく貰うプレゼントも少ない」という公式が成り立ち、ほかの子どもよりも玩具が少ない、ということになる。ちなみにクリスマスも同様なのです。

 

 かといって、おれがなにもない日常で矢継ぎ早に玩具を購入し、息子に与えるというのは教育上よくないだろうし、なにより経済に無理がある。というか、離婚したのは母なのに「おじいちゃんがいない」という後ろ暗いおもいがおれには蟠っているために、玩具をアマゾンで発注しまくっていたら、妻に怒られた。おれのせいじゃないのに。

 

 家庭の環境は、かくじつに子どもに影響をあたえる。世の中には「なに食ったらこんな屈託のないにんげんが出来上がるのだろうか」とおもうような御仁がいらっしゃるが、きっと家庭環境も優れていたのだろう。やっぱそういうとこに出てくんだよなぁ。

 

 ただ、おれはここで「ぜったい離婚はするな」と言いたいわけではない。相手がどうしようもねぇ腐れ外道だった場合、どんどん離婚すべきだとおもう。あとまぁ、にんげんって変わるし、性格が合わなくなることもあるとおもう。

 

 勇気ある離婚は不幸を断ち切る行為であるとかんじる。本書でも、ギルモアファミリーの生き残り、著者マイケルとその兄フランクは、子どもをもうけないことによってギルモア一家の呪いを断ち切った。

 

 肉体的精神的暴力をふるうにんげんは一定数いる。わざわざひとを傷つけようとする残虐なにんげんは一定数いる。気狂いである。そんなにんげんがいる家庭は、ゲイリーを生み出した邪悪な家庭環境と成り果てる。そんな家庭にはしてはいけない。あかんよ。だからこそ離婚するのは「あり」だとおもう。

 

 だが、家庭というのは子どもの育つ土壌である。ほんらい父母のそろっているべき土壌でどちらかが欠ければ、なにかの欠けた子どもが育つことは必定である。おれは子どものころから大人の男性がとても怖かった。

 

 いつもおもうのだが「ふつう」に生きていくことは難しい。がんばってちゃんと生きようとおもって歩みだしても、その土壌がぬかるんでいれば、どんなにがんばっても上手に歩くことはできないとおもう。おんなじだけがんばってるのにね。

 

 ギルモア一家のような土着的な歴史から誕生した、強い呪詛をもつファミリーとくらべることなんておかしいかもしれないけれど、やはりおれは本書を自分の人生に重ねて見てしまうし、気軽に「離婚すればいい」なんて云う人々に、その子どもが負う一生消えない傷のようなものをおもってしまう。バツがつくのは本人ではなく、その子どもなんじゃないのか。

 

 物語をドラマチックにさせる手段として、不幸というのはよく利用されている。そういったものをおれたちは見慣れすぎているのかもしれない。ゲイリー・ギルモアという実際の人物の悲劇は、まるで虚業によって装飾されたもののように救いようがなかった。そのぶん読本というジャンルにおいては、とても興味深いものであった。あーあ、おれもまともな家庭に生まれたかった。

 

心臓を貫かれて〈上〉 (文春文庫)

心臓を貫かれて〈上〉 (文春文庫)

 
心臓を貫かれて〈下〉 (文春文庫)

心臓を貫かれて〈下〉 (文春文庫)