まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

町田康「宿屋めぐり」を読んだ感想

 ミスターチルドレンの歌に「高ければ高い壁のほうがのぼったとき気持ちいいもんな」って歌詞があるけれども、なんて驕慢に満ちたリリックなのか! とすこし業腹である。

 

 だってさ、それって桜井級に成功したにんげんだからこそ言えるというか、それは高い壁をのぼったことのあるにんげんだからこその声明文だとおもうし、その登攀にかんして自己の努力もあっただろうけど、しかしその成功譚には一種の「運」要素もひつようなのであって、それを一概に「乗り越えようよ! がんばってさぁ!」ってポジティブを押し付けられても、こっちはこれまでの経験上「あ、これぜったい無理なやつじゃん。死んだじゃん」なんて諦念が湧きあがってくるものだから、けっきょくそれって君が運よくうまくいったから言えるんでしょ? とおもうわけですよ、ミスター愚昧たるおれなんかは。

 

 だからサッカー選手とかが「がんばれば夢は叶う」とか言ってても、嘘じゃん! とおもうし、ってゆうかおまえのサッカー人生のなかで共に闘ってきた少年サッカーチームの同志たちが全員サッカー選手になる夢が叶えられた、とでも言うのか。なれてるわけがないだろう。周りが見えてなさすぎ。よくそんな視野でサッカーしてられんな? つうか、それともあの少年時代にやってきた友人たちには根底から「努力が足りなかった」とでも言うのか。それってマジで傲岸不遜すぎでしょ。

 

 そういうふうな卑屈というか、偏屈な思想をいだいてしまうのは、きっともしかしたらおれだけなのかもしれないけれども、けれどもだけれども、もしもおれが桜井やサッカー選手のような人生を送ってきたら、上記のような悟りをひらくのかもしれないと、ちょっぴり人生を信じている。

 

 ってゆうのはやっぱ人生、歩んできた道というか、過去? そういうので性格というのか、ベースとなる思想は研鑽されてくると考えるからである。

 

 しかし、どんな思想を手に入れたとて宿命には抗せない。つまりおれが上記の桜井やサッカー選手などの人生を歩み、「歩んできた道に後悔はない。向かうべき道に希望が見える」というポジティブを手に入れても、所詮おれの魂に宿った天命は、陋劣な人生を送るというストーリーから逸脱することはできぬのである。

 

 じゃあもうなに、死ねばいいの? ってなるけれども、これがなかなかどうして死ねないのは、けっこう人生の歯車がうまく回るときもあるからで、そんなときは意外にも「人生って素晴らしい」ってモーニング娘。の「アイウィッシュ」という曲を口ずさみたくなるときもあるからである。

 

「宿屋めぐり」の主人公は、そういった運命に翻弄される。「主」たるものの意向によってその道筋を運命づけられてしまっていて、絶望的な窮状で、もう駄目だ、これまでの人生もそうだったじゃん、けっきょくおれは不幸に死ぬんだ。なんてネガティブに陥ることもあれば、なぜだか不可思議なパワーによってそこから脱却できたとき、いや、いままで不幸だったから、そのぶん今漸く報われたのだ。なんてポジるときもある。

 

 その一瞬の刹那的な「気持ち」こそ、にんげんの本当のことなのだとおもう。歩んできた道によって性格や思想のベースは構築されるだろうが、にんげんの気持ちや趣味趣向などはそのときどきに変化変容をきたすもので、首尾一貫と思想の太い芯のとおったにんげんなどはレアな存在なのだとおもう。

 

 しかし、誰しもの心にあらわれる一瞬の「揺らぎ」のようなものこそ、にんげんらしく、そして「本当のこと」なのではないか。そんなことをおもった。

 

 小説というのは嘘が書いてある。嘘で本当のことを示す。じゃあそもそもが嘘なのだからその本当のことは嘘なのか、というと嘘ではない、とおもうのは、おれがフラワーカンパニーズというバンドが好きで、彼らの曲に「感じることだけがすべて、感じたことがすべて」という歌詞があるからで、世の中には虚像がたくさんあるし、けれどもその虚像虚構たる小説や映画や音楽でおれたちは感動するからで、その感動は本物だとおもうからである。

 

 その一瞬の感動こそが本当なのだとおもう。嘘のような世界がひろがっていたとしても、所詮は宿命づけられた人生だとしても、感じることはすべて本当のことなのだとおもう。だからおれはミスチルの「終わりなき旅」に感動するし、その歌詞はマジで本当なのだとおもう。

 

宿屋めぐり (講談社文庫)

宿屋めぐり (講談社文庫)