まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

漢字の書き順

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 妻に「おまえ漢字の筆順めちゃくちゃだな」と言われる。

 

 そのたびにちゃぶ台をひっくり返し、「ばかやろう! 書ければいいんだよ!」などと大声でわめき散らし、挙句の果てに妻の頬をしたたかに打擲する。歔欷する妻を背中にして「文句があるならこっから出て行け」と堅く言放つ。天井からぶらさがった裸電球だけが静かに揺れている。なんてことはけっしてないけれども、「あはは」と笑ってなんとか胡麻化している。

 

 小学生の砌、「漢字ノート」という、西洋文明がしぶしぶ漢文化を迎合しました、みたいな、これぞ敗戦国たる象徴の帳面があった。当時はそれに漢字を書きつけ、漢文字を学習するというスタイルがスタンダードであったのである。

 

 おもにこの漢字ノートというのは、授業で使用するものではなく、家庭における学習、すなわち宿題において用いられる。

 

 はっきり言うが、おれは宿題なんてものをしたためしがない。だいいち宿題というのは勉強のできないやつがするものだ。おれのように常住テストが満点の生徒がやるものではない。だってそれ以上やっても意味ないじゃん。

 

 それにも関わらず教師というものは学徒ぜんいんに宿題を課すのである。愚昧だとおもう。宿題は勉強のできないばかだけがやればよいのだ。そういっておれはつねに宿題をやらずに後ろから宿題をまわして提出するさい、それとなく流してその場を凌いでいたのである。

 

 しかし漢字ノートだけは特別な待遇をうけていた。これだけはちゃんと提出しなければ「もはやこの学校にオマエの居場所はなくなるぜ」的、恫喝めいた強制を施されていたのである。よってしょうがねぇっつって不承不承に漢字を書きつけ、これを提出したのである。

 

 そのさい、漢字をくそまじめに一文字一文字書くなんて出来ない。そんなことしてたらおれの大事なプライベートな時間が失われてしまう。そこで発明したのが、工業性ベルトコンベア式漢字書き、である。

 

「頭」という字を例にだそう。これはよく「一口ソ一、一ノ目ハ」という簡易な漢字に分解したうえでさらにリズムで憶える、という記憶法が有名だとおもう。

 

 つまり漢字というのは分解できる。これを一文字一文字書くよりは、一マス一マスにその分解した文字、つまり「頭」という漢字であるとこの「一」を書き、その行一列に「一」を書いたらば、次に「口」を書く。その次に「ソ」、そして次に「一」を書く、と部分部分を一個ずつベルトコンベア式に書いたほうがぜんぜん速いじゃん! と考えたのである。

 

 かつてアメリカで自動車が大量生産されたさい、一台一台の車を作るのではなく、部品ごとに生産し、それをラインに流し、そのラインが終着するところで一台の自動車を仕上げる、という手筈が整えられた。ってか今でもそう。伝統的大量生産ハウツーである。

 

 それじゃんとおもった。ベルトコンベア式に仕上げた漢字は、すこしいびつな形をしていたが、教員に「さては工業性ベルトコンベア式に生産しましたな?」など陰湿めいたさぐりを入れられることもなかった。

 

 こうしておれは、なんとか学校に居場所がなくなるという虎口を逃れたのである。つうかおれはこの工業性ベルトコンベア式漢字書きが一般的だとおもっていた。しかし学級委員タイプの妻からすれば「うわ……」というものらしいのである。

 

 みなさんはどのような宿題の逃れかたをしてきましたかぁ? おれは結果として、後遺症的に漢字の筆順がめちゃくちゃになってしまった。けれども、もし脳にキャパシティというものがあるとすれば、「書き順」で脳の容量を占めてしまうより、そんな既成概念に囚われず、漢字を象形文字として憶えていたほうがより脳の使い方として有効なんじゃありませんかぁ?

 

 と言いつつ、妻はなぜだか漢字をたくさん書ける。かたやおれは漢字が苦手である。こないだ「境」という字をど忘れしてしまった。土立見マイナス一。妻曰く「漢字は書くリズムで憶える」らしい。だからほんと宿題とかちゃんとやったほうがいいとおもう。ばかみたいな書き方しないほうがいいとおもう。漢字が書けないってけっこうはずいです。社会的一タヒ。