こないだ、大泉洋氏が拙宅のテレビジョンに受像されていたので、拝見していると、なんと大泉氏はヒゲをたくわえていらっしゃる。おまえがヒゲを生やしたらややこしいだろう! と細君と笑いました。とても素敵な夜でした。
「水曜どうでしょうのおもしろさがわからない」という人の言は、すこしく理解できる。旅番組と惹句しながら番組の大半は車内の映像である。詐欺だとおもう。人間を馬鹿にしている。だいの大人がすることじゃない。
けれどもおもしろい。おれはおもしろいとおもう。好きである。魅力がある。パンチがある。車内の映像や、おっさんがカブに乗って走っているだけなのに。すごいとおもう。革命だとおもう。ブラボーだとおもう。
映画「オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分」は主演のトム・ハーディというコーカソイドが、ただただ車中の人となり、ハンドフリーの電話で会話しながら、高速道路をひた走る、という演出陣の独善的な革新性が冴える、たいへんマニアックな映画である。おれはこの映画、とてもおもしろいとおもった。
オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分(字幕版)(予告編) - YouTube
以後はちょっとしたネタバレの感想になってしまう、とここでひとつ警告しておきたい。しかし、この映画にネタバレがあるのか、というと「あるけどたいしたもんじゃない」とおれは個人的におもう。そういう物語をおもしろがるタイプの映画ではないとおもう。
なにがおもしろかったのか、というと、ストーリーに場面なんていらないんじゃん! と思えたところである。
主人公のアイヴァン・ロックは、不義密通相手の出産に向かう。ヨーロッパ最大級のコンクリート工事という仕事を放擲し、さらには息子とのサッカー観賞をも反故にして、ただただ己の信念のために、高速道路を疾駆する。
工事は部下に任じた挙句に会社は解雇され、そのうえ事情を説明した妻からは絶望されてしまう。駄目なやつじゃん。いや、アイヴァンはそうはおもってない。ここで不倫相手の出産を見なかったことにするほうが、自分が駄目になってしまうとおもったのである。男とは勝手な生き物である。
もし仮に。これをシーン別に、場所を分けて演出したとする。はっきり言って、とんでもない三文映画である。描かれた内容は、仕事、家庭、信念。ちょっとありきたりすぎる。脚本代二十円である。そんなもん見るくらいならトレマーズ*1でも見ていたほうが人生が有意義である。
「オンザハイウェイ」はそういった視覚で胡麻化しのきく映像を使わず、主演男優ひとり。車。高速。電話。これらオンリーで物語をすすめてしまった。小賢しい場面展開なんていらんのじゃ。
文学にも戯曲という形式がある。場面は提供されるが、細やかな描写などなく、その内容はほぼ会話文である。それでも登場人物の喜怒哀楽は表現されるし、どういったしぐさをしているのか。どういった表情をしているのか。会話の相手がなにを思っているのか。それらはちゃんとわかる。
ファンクの基礎を作り上げた帝王ジェームス・ブラウンは、コード進行などとっぱらい、ほぼワンコード。ノリ*2とリズム*3とパッション*4でカッコいい音楽を作り上げてしまった。音楽においてコード進行とは空間を支配する。でも、それがなくてもファンクは音楽としてカッコいい。
水曜どうでしょうも旅番組なのに、旅先という旅番組におけるもっとも重要なファクターをなおざりにし、その「移動」に焦点をあててしまった。移動という日常ありふれた時間軸に番組を落とし込むことによって、車内の会話を光らせた。ここで大泉氏は「友達にいるすげーおもしろいやつ」の役割を果たし、いまでは八面六臂である。
かといって「オンザハイウェイ」が映像を等閑視しているかというと、そんなことないとおもう。とても美しい。漆黒の夜のハイウェイ。フロントガラスに反射する七宝のごときぼやけた光の玉。それらがネオンに実像を結ぶ瞬間。アイヴァンはなぜ今の幸福をなげうってまでその行動に駆られたのか。誰もいないはずの後部座席。アイヴァンが闇夜にうかべる幻影。もう引き返せない一本道をカーナビが機械的な配色がうつしだしていた。蓋し象徴的である。
映像展開のない映画。だからこそ、「オンザハイウェイがつまらない」という意味もよくわかる。演出陣営のひとりよがりの革新性だ、という意見もあるかもしれない。けれども、おれはこの映画から「ありきたりな脚本でも見せ方によって化ける」というようなことを学んだ気がする。
あとアイヴァンはかっこいいとおもう。不倫をする人間は屑だが、責任のある男だとおもう。狷介不羈なとこもあるけれど、それが男の歩む道である。サムライだ。ラストの息子との会話は比喩的でとてもよかった。なかったことにするのも大事だけどな。ちなみにおれはテレビジョンに大泉氏が出てくると、友達がテレビではしゃいでいるみたいで、すこし恥ずかしくなります。わかりますか? この気持ち。