まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

おっさんのくしゃみは何故でかいのか

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車内でなにかが爆ぜた。炸裂した。テロか?と私は訝った。それほどの轟音が響いたのである。場所は高崎線直通上野東京ライン車内。しかし車内は妙に落ち着きをはらっていた。世界はなにごともなく回っていたのである。

 

それは咆哮であった。男の咆哮であった。私は気がついた。これはおっさんのくしゃみだ。脳内の整理に時間はかからなかった。安堵とともになにかを期待していた自分を恥じた。

 

くしゃみの擬音として一般的なのは「はっくしょん」である。これほど気持ちよく「はっくしょん」という人間も少ないが「はっくしよん」は定着している。しかし男の咆哮は文字にすると「あ”-!!」であった。これは本当にくしゃみなのか、と私は疑問符と感嘆符、どちらをつけてもしっくりくるこの一文を考えていた。

 

刹那。 

 

「あ”ー!!」「しょん」「ずっ」「ん"ん"」

擬音にすれば意味のないその文字が再度響いた。2度目のそれは注釈のようにくしゃみとしての残骸を置いていった。そして私は釈然としたのである。あれはやはりくしゃみだ、と。

 

すると設問②がふいに頭に湧いた。どうしておっさんのくしゃみは声がでかいのか。私はその答えを探そうと読んでいた本を閉じ、思慮にふけった。

 

咆哮は雄雄しいイメージが付きまとう。ライオンキングがあげるやつである。しかし、くしゃみを咆哮と呼ぶのにはいささか抵抗がある。咆哮には強い意志が汲み取れるが、くしゃみはただの生理現象だからだ。それはたしかに野太く響く声であった。たくましくも気高く叫んだ濁音であった。叫んだ。これは叫んだ、という表現が正確ではないか。そう思った。するとおっさんはただくしゃみをしたのではなく、叫んだのだ。もしくは、くしゃみの体(てい)を装い叫んだのだ。 

 

なぜおっさんは叫んだのか。というよりなぜ人は叫ぶのか。人は叫ぶ。それは主張、誇示、証明、抵抗、発散、非情、歓喜、発狂などが含まれる。しかし真意。それは溜め込んだ自分という存在を解放する宗教的儀式である。

 

おっさんのくしゃみが叫びになったこと、否、おっさんがくしゃみを叫びとしたことの意味は「自己の存在の解放」である。畢竟、おっさんはその瞬間「生きている」と叫んだのである。

 

「おっさん」という男性の進化過程における形態には強い哀愁が薫っている。毎日を満員電車の移動で通勤し、会社に着けば上からも下からも圧力をかけられる。昼餉に出かけようも、うまい店は軒並み小洒落たファンションランチに鞍替えしている。つまり居場所がない。くたくたになって帰宅する。待っているのは洗い物と風呂洗浄。休日は「家にいるのが邪魔」と言われ、ときおり家族の行楽を提案するも邪険に扱われるのみ。主張は虚空に消えるのである。

 

だからおっさんは叫ぶ。それは今を生きる、ということである。抑圧されたこの満員電車の空間で、生理現象という名目の免罪符を手にする。そして自分を解き放つ。それはバランスである。この世の中を生きていくための心のバランスである。瞬間を誰も責められない。それは人体の自然現象であるからだ。その瞬間、おっさんは自由になれる。そこにあるのは築き上げてきた過去ではない。取り繕うべき未来でもない。おっさんは今を生きる。今を叫ぶ。リアルがそこにあるのである。まじエモい。

 

そう自己の結論が出た時、途轍もない嫉妬が内側から生まれた。それは私を動かした。

 

「おれも今を生きたい」

 

私ももうおっさんの域に足を踏み入れている。腿やふくらはぎの血流がうまく循環しなくなるのでスキニーパンツはもう履けない。それはおっさんの指標でもある。しかしまだいい格好をしたい。しかし脚に残る倦怠感を考慮すると履くべきではない。どうすればいいのか。鬱憤が溜まる。それを吐き出したい。その気持ちを叫びたい。俺に、今を、生かしてくれ!

その時である。私の鼻腔をくすぐる感覚が起こった。衝動が私を襲う。肺の底から込み上げるものを頭頂部から助走を付けて放つ。

 

そして私は叫んだ。今。

 

 

いつもの駅に着いた。閉ざされたゆらつく車内の長尺シートを蹴り、コンクリートのホームへ駆け下りた。

四月の柔らかい風が鼻腔に薫った。