まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

スウェットポッケ不要論

 夜半。閨に入ると、どうも寝心地が悪いというか輾転反側、いたいなー、いたいなー、って稲川淳二をスパイスに加えて云うと、太ももあたりに違和感があるのである。RのでR。その正体は、すなわちスウェットのポッケであった。

 

 スウェットのポッケ部分がポッケ内部で纏綿としていて、そいつがどうやら丸みのような形状を保ち、それがために横になると、その丸みをもったスウェットの部分が圧縮され、硬度のある鞠のようなかんじになり、それが大腿部へと食い込んでいたのである。

 

 おれは激怒した。なんたる企業の不始末だとおもった。ズボンという形状をとっているからという理由でポッケを設えている。はぁ? 意味ワカンネ。はっきり云って、スウェットにポッケなんていらないのである。

 

 スウェットという衣類は、おもにどのような運命を背負っているのか。というと、だいたいの場合、まー、すくなく見積もっても七割、八割がパジャマである。パジャマのカルマ。韻。で、ここからが本題ですが、パジャマにポッケ要りますか? ←これは反語です。

 

 さらぬだに、スポーツウェアとして機能するレアケースもあるだろうが、逆にスポーツウェアとして機能するのならば、よけいにポッケなんていらぬのじゃないか。おれはスポーツせぬのでよくわからないが、ポッケにキーやキーホルダーやタバコやライターが入った状態でスポーツなんかしてたら、邪魔くさくて仕様がないだろう。

 

 だからスウェットという衣類にはポッケはいらないのである。それなのに、あぁそれなのに、スウェットを生産している企業様は、「ズボンだからポッケをつける」と思案なすっていらっしゃる。なんて因業な、なんて頑迷固陋なのかしら。

 

 じゃあおまえがポッケのついていないスウェットを選んで買えばいいじゃないか、という声も聞こえなくないが、いや、そうゆうことちゃうで。おれはな、カスタマーの怠慢を嘆いているわけではないのや、工藤。企業の妄信を嘆いてるのよ。

 

 ほんとそうゆうとこだよ。まじで。そうゆうとこがこの国の改革にとってよくないのだと、おれはそうおもう。ちょっとちゃんとユーザーへの視線というものを意識しないと、顧客はすぐに離れていきますよ?

 

 そんなわけで、瞋恚の焔を宿しながら、「なんでおれがこんなことしなきゃならんのだ」とおもいつつも、おれはスウェットのポッケに手を突っ込み、スウェットのポッケの内部を、そのボール状からフラットスタイルにもどそうとしたとき、たいへんな事実が判明したのである。

 

 スウェットにポッケは無かったのである。すばらしいスウェットだとおもった。おれは知らぬ間にポッケのないスウェットをチョイスしていたのである。それはまるで歴戦のボクサーが意識を失ってもなお闘い続けるかのように、自然とポッケのないスウェットへと身体が動いていたのである。

 

 おれはこのときほど神の存在を感じたことはない。いや、それはきっと、おれが何度もスウェットのポッケに苦しみぬいた結果だったのだろう。だが、じねんとポッケを排撃していた自分の奥底に眠った無意識に霊験あらたかな神の存在を感じたのである。ありがとう、神よ。アーメン! ハレルヤ! ホサナ!

 

 じゃあおれが覚えたあの違和感の正体はいったいなんだったのか。それは今でもわからない。でもそれでもいい。それでいいんだよ。だっておれには神がいるから。翌朝、なぜだか息子の洟をかんだティッシュがそこにまるまってありました。

 

四歳児とスイミングスクール

 這えば立て立てば歩めの親心、なんて昔から云うけれども、じゃあそのネクストステージは? つったらやはり「泳げ」なんじゃあるまいかと、おれなんかは愚考する。

 

 過日。独自のネットワーク*1により仕入れた情報によると「小学生までにほとんどの子どもが泳げるようになっている」とのことであった。これを噛み砕いてその本質を見極めれば、つまるところ、親は子どもに泳法を伝授しなければならぬ、ということになる。

 

 うそだろう……と怪訝と焦燥をやどしたおれは、入念な諜報活動*2を試みた。するとどうだろう。みな意をそろえたかのように「親が教えることは稀であろう。我々はスイミングスクールにかよっている」と云うのである。

 

 はっきり云って絶望しました。だって子育てって、親と子どもが健やかに生きていければいいのだと妄信していたからです。そんな折、「スイミングスクールに通う」なんてことになれば、一家のスケジュールはスイミングスクールに圧迫され、休日という言葉はまさに読んで字のごとく名折れ。ちっとも休めず疲れを翌日まで継承し、生涯疲れているという人生の悪循環に陥る、つまりスイミングスクールのその正体とは、疲れのカルマを背負う、ということであるからです。

 

 それはヤバイ。とおもった吾が郎党は、これからはどんなことがあってもスイミングスクールを避けていこう、泳げない人生でもいいじゃないか。と、息子の人生にひとつの諦めという刻印をしようとしたところ、神のいたずらであろう、拙宅のポストに「スイミングスクール、いまなら入会金無料」などと、楽しそうな水泳キッズの写真のうえに堂々たる赤字でかかれた広告が投函されていたのである。

 

「スイミングしたいか?」と広告を握りしめ、四歳児に問うたところ、「おれスイミングしてぇんだよ」と言を俟たない。そうか……と一口言葉をもらしたおれは、どうじに一つの決意を眉宇に漲らせたのである。すなわち、「行こう、スイミングスクールへ……」と。

 

 とは言っても戸塚ヨットスクールの事例などもある。ひとは歴史に学びますね。よってまずは無料体験スクールというやつに参加したのである。これはべつに「無料」という魅力的な惹句に惹かれたわけではない。

 

 拙宅より車で五分。スーパーマーケットを抜けた細い道にそれはあった。すでにスイミングを終えたであろう門下生たちが、まだすこし濡れたままの髪を風にゆらしながらあちこちに歩いていた。

 

 その日は土曜ということもあって、たくさんの参加者が輻輳していた。これがおなじ釜の飯を食う同胞(はらから)になりうるのか、それとも闘諍をくりかえす宿敵(ライバル)になるのか、とあたり睥睨しておったところ、息子と同じこども園にかよう四歳児も現れたりして、なんだか息子は欣喜たる面をさげていたのであった。

 

 水着に着替え、観覧席で待っていると、講師らしき女性が子どもたちの名前を呼んでいる。目の大きい小柄な、明朗な女性であった。おそらく講師として経験をふんだんに積んだのであろう、子どもの扱いに泰然自若たるものがあった。

 

 こういうとき、「行きたくない」などと言う子がかわいいとおもう。が、吾れらが息子はそんなそぶりを毫末もみせず、「じゃあね」のひとこともなしに、講師の女性についっていってしまったのである。パパはさみしいぜ。

 

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※写真がだいたいブレる

 

 観覧席はプールの二階部分に設えられており、アクリル板のようなもので遮られていた。階下のプールで放たれた言語は、ぼんやりとくぐもっていて、なにかを言っているようだが、なにも聞こえない、という環境になっていた。

 

 二階から息子の姿をみていた。十二人の参加者が年齢別にわけられ、息子は五人のキッズにまじって体験をしていた。そんな息子の姿をみていると、おれはちょっと感動してしまう。いっちょまえにちゃんと講師の言うことを聞き、顔に水をつけ、バタ足をし、順調にことを成し遂げていたのである。

 

 プールから上がってきた息子は「たのしかった」と云った。講師の先生も「ようたくん、ふだん御風呂で顔つけてます? これならジュニアコースからですね」なんておっしゃって、まるで惑星直列のごとくスイミングスクールに通う条件が並んでしまったのである。

 

 ふと気がつけば、申し込み用紙に個人情報を記入している自分がいた。おれの順調な人生のシナリオでいけば、この体験入学で息子はスクールに飽き、水への恐怖心からガタガタふるえ「もうかえりたい」と云いながら、人生にいっさいの変化はおとずれない筈であった。

 

 しかし、じっさいはこれからの土曜を息子のスイミングスクールに費やす算段をすることになった。月謝は七〇〇〇円である。これで月四回。なんたる手許不如意。

 

 だがおれは体験入学で息子の才能の爆発をみた気がした。この天稟をもって将来はヨーロッパなどに外遊し、最終的には運動の祭典などで活躍するんじゃないか? そしたらコカコーラ社の広告などに出て大量の金銭を受領し、おれたちはスポーツ選手育成の泰斗として左団扇の生活、なんてとこまで考えると、どうやらすさまじい未来の革命がおこりそうな予感がしているのである。

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*1:妻の近所のママ友

*2:こども園での事情聴取

シティマラソンによる交通規制

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Pixabayのmaxmannによる画像です

 やけに車がすすまねぇな、と苛立ちはじめたとき、ふと目の端にひとつの看板がとまった。そこにはなんと「シティマラソンのため交通規制」という注意勧告がゴシック体で書されていたのである。そんなばかなことあるめぇとおもった。

 

 世の中には無感動、無感覚、無趣味ひとが一定数いて、なにを観ても、なにを読んでも、なにを聴いても、ちっとも感動しないため、しかたなく「走る」を趣味にする、というのを風聞したことがある。

 

 正直にいってかわいそうだとおもう。こんなにたくさんのエンタメが跋扈してるのに、とてもとてもかわいそうだとおもう。いったい前世でどんな悪行をしてきたのだろうか。馬にでも生まれてきたほうがよかったんじゃないか。

 

 そんな彼らジョガーが公的に走行するために、税金を導入し、人員をかき集め、交通規制を布き、かれらの安全走行を確保しているのである。すごい狼藉だとおもう。はっきりいってヤバイとおもう。

 

 なぜ彼らは走るのか。というと、前述した「無趣味無感動」のかなしい習性のためであるが、その一方で「健康のため」という利己的な欲求が一種のベクトルとしてそんざいしているのである。

 

 これは国家の存亡に関わるぞ、とおもった。かくなる利己的な草民が増加の一途をたどれば、シティマラソンのごときイベントがしょうけつを極め、国家の血脈たる交通網を麻痺させてしまうのである。

 

 するとどうなるか。答えは明白であろう。日本国の流通停滞。つまり、モノが滞留してしまう。今様はクラウド管理などといって、データはすべてウェッブという仮想世界にあれども、しかしやはりモノが流通しなくなるのはこの国の危機である。

 

 いったいこの国はどうなってしまうんだ! おれは憂国の士となって、この滅び行く国の解決案を愚考*1してみると、一条の光が差し込んだ。これだ! とおもい、いまその解決案をウェッブ上にしたためるので、ぜひともこの国がこれいじょうまずくなる前に、与党はこれを断行してほしいものである。

 

 つまり、トラックで走る。これである。マラソンというのは四二、一九五キロメートルを走行すればいいわけであって、なにも市街地を駆け巡る必要性というのは皆無なのである。そこでトラックで走る。

 

 トラックというのは、競技場にある楕円形の文様で、おもに陸上競技などで使用されており、その一周の距離は四〇〇メートルと相場がきまっている。さらに、そこには競技を観察するためのスタンド席も常設されていることがおおい。

 

 これを一〇五周ちょっとすればマラソンの距離はクリアできる。またトラックを使用すれば「勝負の駆け引き」というのも楽しめる。マラソンはおもにタイムを計ることで己との戦いを要しているが、そこはやはり競争なのだからだれが一番なのか、いつ「差す」のか「逃げるのか」、「捲くるのか」といったような駆け引きを前面に押し出していくべきではないだろうか。

 

 スポーツとはエンタメである。かくなる「駆け引き」をトラックに付随するスタンド席で観察し、さらにはそこに賭博の要素なども絡めれば、大衆はおおよろこび。さらには交通網の健全な流通も確保でき、万事がうまく行くのである。

 

 ここまで書いておいてすこしおかしな話であるが、上記のこんなふうな考えかたは、だいぶ鬱屈しているとおもう。だってそうじゃないか。競争社会の現代、安寧をもたらすべき趣味の世界でさえ競争をおこなわせ、さらにはトラックなどという狭い世界に雪隠詰め、あろうことかそこを百週以上させる。ただの罰ゲームである。現代の奴隷である。

 

 さすればランナーたちはたちまちにして心に闇を灯し、世界は暗くなってしまう。奴隷の闇は深いのだ。健全な身体には健全な精神が宿る、といわれているが、おれはちがうとおもう。健全な精神が健全な身体をつくりあげるのである。つまり、まずは精神の健全を保たなければならぬ。

 

 おれは電車通勤の最中。超思案投げ首した。この国を守りたい。ただただその純情な一心でさまざまな案をスマホのメモに書きなぐった。しかしどうも行き詰ったのである。そんなとき、ふと顔をあげ車窓に目を注いでみた。遠く天空に富士がすきとおっていた。

 

 霊峰富士。その壮麗さはすばらしい精神的な康寧をもたらすのである。そうかこれか。どんなにスマホの世界をさがしても、この水晶体に投影される秀峰より美しいものはないのである。そう、現実は美しい。

 

 しかし、おれは虚構を愛している。映画や音楽、小説などを愛している。けれどもすべては創られた世界。虚業である。そんな世界でたったひとつ確固たるもの。それは己の肉体なんじゃあるまいか。

 

 そんな肉体を感じるためにワンポイントアドバイス。マラソンである。

 

 はずむ息。躍動する筋肉。汗ばむ肌。感じる。生きてるって感じる。踏み込む大地。つんと鼻を刺激するひんやりとした空気。そして視覚に流れ込む町の姿。それらはすべて本物である。

 

 嘘の世界になんて生きていたくない。おれは本物の世界で生きいきたい。それにはやはりマラソン。それも目に映る風景を感じられるシティマラソンなんかがもっとも良いとおもう。だから交通規制をしてまでもシティマラソンをすべきであると、おれは主張したい。

*1:寝ずに

セブンの蒙古タンメン中本「北極ブラック」

 にんげん誰しも慢心をもっているとおもう。その慢心ゆえ詐欺にひっかかったり、飲酒運転をしたり、小栗虫太郎「黒死館殺人事件」を読んでくじけたりする。だれしもが「自分ならだいじょうぶだ。イケる」とおもっているのである。

 

 例にもれず、かくいうおれも慢心に満ちていた。というのもセブンイレブンという美味いものの伏魔殿で「蒙古タンメン中本 北極ブラック」なるものが販売されていたがために、ついうかうかと手をだしてしまったのである。

 

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画像引用元:セブンプレミアム 蒙古タンメン中本 北極ブラック|セブン‐イレブン~近くて便利~

 

 おれは辛いものが好きである。それはきっとおれが生誕した一九八六年の流行語に「激辛」というワードが入っていたからであろう。つまるところ激辛にかんしてはネイティブ。そんな激辛の加護に守られたおれであっても、この北極ブラックは残念ながら「おのこし」をしてしまったのである。

 

 そもそもおれはセブンの蒙古タンメン中本が大好きである。有体に言えば、本家よりも美味いとおもっているところがある。ほんとに美味い。マジで超好き。いままでたくさんの嘘をついてきたが、これだけは自信をもって言える。それが、あなたが好き、ということ。

 

 セブンの蒙古タンメンの美味さの真髄は、なんといっても「コク」だとおもっている。味噌のコクやポークのコクがすさまじいパワーを効かせている。そのコクの大波にサーフィンしてるのが「辛さ」であり、辛さがすこしでもバランスを崩してしまえば、すべてが水泡に帰す、累卵の危うきにも似た魔術的奇蹟の絶妙感でなりたっているとおれはおもっている。また具材もいい。

 

 頃日、これに納豆を混入させることが巷間で流行っているらしいが、きっと合うだろう。おれも是非やってみたいとおもうのだが、やはり彼女のありのままを愛していたいので、なかなか逡巡してしまうのである。

 

 そんななかブラック、というよりも問題はこの「北極シリーズ」であろう。以前も「北極」という本家シリーズを踏襲した製品をセブンは企画開発しているが、これはおれも何度か食った。勝率は六割くらいであろう。しかしやはり辛いのである。

 

 味噌ベースであるスープのコクは喉ごしで感じられる。しかし、そのまえに舌が炎症してしまう。カプサイシン、まったくもって油断のならぬことである。その辛味は粒子となって湯気にまじっているため、鼻腔をもってあじわいを感じようとすると、「噎せ返り」という脆弱な人体の防衛能力が働くために、ちょっとあわれなことになる。

 

 今回の北極ブラックは、焦がしにんにくをフィーチャーしたものらしい。なるほど従来の北極よりも焦がしにんにくの「丸み」、いわゆるマイルドさがオーラのごとく充溢しており辛さをカバーし、たいへん食いやすくなっている。

 

 だがやはりその正体は北極であり、もう舌とか痛いし、口腔内の秩序を守ろうと脳が指示するのか、唾液がすごくたくさん出てくる。またそのネーミングも効能をしめしているのだろう、食いだすとちょっとした悪寒をかんじはじめるのである。

 

 そしてついにおれは残してしまった。「おれなら食えるっしょ!」と驕慢だったのだ。江戸っ子たるもの「義理と人情、やせ我慢」という十字架を背負わねばならぬのだが、あいにくおれは駿河の生まれである。温暖な気候でそだった悠然たる精神では、決然とした蒙古に打ち勝つことは叶わなかったのである。

 

 むろん、のこったスープを流しにこぼすさい、シリアの難民や、皮と骨だけになったアフリカの子どもたちの顔が浮かばなかったわけではない。だが今のおれにはどうすることもできない。おれはなんて無力なんだとかなしくも歔欷の夜を迎えたのであった。

 

 しかし今おもってみると、あんな辛いカップラーメンを救援食量として送られても、難民たちはただただ狼狽するだけではないだろうか? ともおもう。けっしてまずいわけではない。うまいんだ。うまいけど、たぶん草木に撒いたらそこは枯れる。けれどもきっと排水溝の雑菌は死滅したであろう。カプサイシン、油断のならぬことである。

 

 

歯医者奮闘記

 歯医者がこわい。一人前の独立した男児、それも三十路を越えたのが、なんという惰弱なことを言っているのか。ってな話であるが、男としてのプライドをかなぐりすて赤心吐露せしめれば、歯医者が怖いのである。もしかしたら前世になにかあったのかも…。

 

 でも、はっきり言って歯医者における施術、いわゆるドリルやらペンチやらで歯を掘削したり引抜したりすることは、そんなに怖くない。じゃあなにを恐れているのかというと、おれはおれのプライドが傷つくのを恐れているのである。

 

 誰かが言っていた。「歯のないやつはだいたいゴミクズ」と。正解。おれは歯がないわけではないが以前、いっときの気の迷いで歯医者に訪問したさい、「ほとんど虫歯ですねー」なんて冷笑気味に言われた。「がんばって全部治していきましょー」という言葉の端には侮蔑が混じっていた。

 

 たとえばもしあなたが今、「いまからこち亀全巻読め!」と言われたら、くじけちゃいませんか? たとえそこから得るものが多く、人生を豊かにすることがわかりきっていても、その手間に莫大な人生をかけなければならない、と判明したとき、人はふいに絶望を感じてしまう。そしておれはあきらめた。

 

 歯磨きをしないわけではなかった。法律に触れてしまう薬品も嗜んでいない。じゃあなにがおれの歯をここまでにしたのかというと、おそらく飲酒である。

 

 科学的な根拠はよくわからないが、きほんてきに酒飲みは歯が悪い。太陽中天たる時刻にワンカップを持ち、競馬に情熱を傾けている初老の歯の無さは想像に難くないであろう。まったく駄目なやつである。そういえば太宰治も酒で歯が悪くなり総入れ歯であった。こいつも駄目なやつである。

 

 ゆえに世間には「歯が悪いニアリーイコールクソ人間」という方程式ができあがってしまっている。どうもクソ人間です。ほんと生きててすいません。と平身低頭、公共の場では陰に身を潜め、「戸籍上ギリ存在している」程度に生きていくべきなのかもしれない。

 

 自らそうは思っても、これを他人に言われるのは業腹である。以前の歯医者でもちょっとした嘲弄を受けたが、また新しく歯医者に通い、この歯の悪さが指摘され、挙句の果てに「おまえの生き方は間違っている」などと言われたら、おれはどうにかなってしまうんじゃないか。口に指を突っ込まれ、峻烈な面罵をうけ、そのうえカネまでとられるのである。そんなマニアックな店ありますか?

 

 だからこわいのである。おれの歩んできたこの三十余年の人生を、たかが歯の悪さで全否定されることがこわいのである。たとえ言葉に出されずとも、皮裏陽秋、歯科医の胎のなかでは、ありとあらゆる悪罵嘲弄が渦巻いているかもしれない。それが厭なのである。

 

 けれどもそれではいけない。おれももうすでに二児の父。人間の生き方を身体で示さねばならぬのである。そうだ、この歯を治そう。眉宇に漲った決意を指先に運び、なんと歯医者にテルって予約をぶっかましたのである。こうしておれの歯医者奮闘記がはじまる。これは男の壮絶な闘いの記録である。つづくのかは不明。

 

お食い初め

 ジャンル的には「ほのぼの育児系ブログ」を目指しているのだけれども、どうもうまくいかないのは、やはり育児というものは、ほのぼの行うものでなく、ちょっと屍山血河、みたいなかんじだからだろうか。四歳児は今日もげんきいっぱい。

 

 そんな元気な長男に対して、生後数ヶ月の次男というのは、まさに「ほのぼの」という形容が相応しく、はっきり言って超イージー。むろん、妻がよく世話をしてくれている、という紛れもない事実の上になりたっているのであるが、小さなテロリストという二つ名をもつ四歳児に比すれば、赤子も同然。

 

 そんなこんなで、次男が呱々の声をあげてから、約百日という劫を経た。そのために、「お食い初め」という儀式をおこなったのである。場所は、埼玉の飲食業界を牛耳る馬車道グループが展開する「徳樹庵」である。すきとおった冬晴れの気持ちの好い午であった。

 

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 お食い初め御膳。たしか三千円くらいだったとおもう。食うものに困らぬようにと息災を願うまじないが込められているという。たぶんバイトが作っている。時給千円のまじない。食い物の困窮は親の双肩にかかっている気がしなくもないが、鰯の頭も信心からと文言もある。おれ、妻、四歳児と、次男に食うまねをさせ、御膳自体はおれが食った。


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 おまけの赤飯がお持ち帰りパックで二つ付いてきた。赤飯は冷たいほうがうまい。

 

 四歳児はお子様セットのようなものを注文していた。その脚注に「おもちゃ付」と記載されていたからである。原価が二十円くらいの、樹脂を固めただけのごときおもちゃであった。あんまピンときてねぇ容子であった。

 

 部屋は半個室になっていたため、非常に気楽に食事ができた。長男のときは木曽路というノーパンではないしゃぶしゃぶ屋でおこなったが、あそこはちゃんとした個室だった。けど木曽路はちょっと高額で、葦に浮かんだ朝露を舐め日々を凌ぐおれにとってはけっこうヤバい店である。

 

 家で行う、という選択肢もあったが、まず鯛を釣るためには海老がひつようであり、四歳児の好物が海老であるため、釣っても釣っても長男。という結果になりかねないため、外で食った。そういえばさいきん、四歳児が外食に耐えられるようになったのである。

 

 生得的に落ち着きがなく、三歳児検診では特別相談室に連行されるという前途洋洋、華々しい経歴をもつ四歳児であるが、頃日では「待機」ということができるようになった。むろん、それでもうるせぇときはあるが。

 

 次男が産まれ、赤ちゃんがえり、ということはなかった。けれども、やはりどこか甘えたいようで、次男を抱っこしていると「おれもそうやってだっこしてくれよぅ」と言ってくる。狂おしいほどにキュートである。抱っこしちゃうぜ。しかし十八キロ。これほど地球の重力を恨んだことはない。

 

 ゼロ歳児もかわいいが、おれはそれでもやっぱり長男のほうがかわいい。まず顔の造形が圧倒的にかわいい。次男は赤ちゃんという免罪符があるために、息をしているだけであどけなくかわいいが、長男は顔と声と性格がかわいい。ゼロ歳児の顔は熊五郎みたいなかんじだが、長男の顔はシャルルみたい。上品。プリンス。

 

 四歳になるとけっこういろんなことができるようになる。トイレもできるし、物を食うのもうまくなる。テレビをつけプライムビデオも操作できる。そしてなにより精神が備わってくる。ゼロ歳児の世話があるため、育児の負担が増えるかとおもったが、四歳差であれば、係累たる二親の助けがなくてもなんとかなっている。これが二歳差や三歳差であるとおもうと血が凍るおもいである。みんなすげぇよ。

 

 よってお食い初めは、なんのドラマ性もなく、無難におわった。だから「息子が食い終わってしまったので、おれの食事時間二秒」みたいなこともなく、つまらない日記になってしまったけれども、こうして日常が流れ、息子たちは大きくなってゆくのだなぁと感慨深い日であった。

ツイッターには「半年ROMってろ」と言ってくれる優しい人がいない説

 ツイッターで政治家みたいなのと一般人が喧嘩していた。他人の喧嘩ってめっちゃおもしろいよな。勉強になります。そのなかで一般人が「巣窟(すくつ)」という表記を使った。それについて政治家側が「ソウクツです。ちゃんと日本語を勉強したらいかがですか」的な扇情的リプをかえしていた。

 

 とても「マジレス乙www」と言いたくなったが、こんなことでFF外から失礼するのは、彼らの熱い甲論乙駁のさまたげになってしまうので遠慮しておいた。それに「ソウクツです」とおっしゃる人びとには、これも通じねぇな、と諦念を抱いていたからというのもある。

 

 政治家もネットで意見を発信する時代である。きっといままでスクツという表記をみてこなかったのだろう。真面目がエコーチャンバー。あとたぶんスクツって死語だよな。でも個人的に、増冗慢な意見だが「それくらい知っとけよ」ともおもってしまった。

 

 頃日。ネットにネットによる不祥事が流れるたびに、ばかだなー、とおもうと同時に、かわいそうだな、とも憐憫してしまう。飲食関係のバイトの動画とか。おれはこれは「恒産なくして恒心なし」的なことではなく、ただ単純にセンスが馬鹿ということだとおもう。ほんとシンプルにそれだけ。

 

 センスが馬鹿だからといってネットをしてはいけない、というのは人権の侵害である。ネットなくして現代社会を切り開くのは至難である。それに「馬鹿でもネットしていいんだよっ!」と、いまのプリキュアならきっとそう言う。けれども、或る程度そのネットのセンスを磨く必要はあるとおもう。

 

 センスを磨くためにはどうすればいいのか。やはりおれは「半年ROMる」というのが定石だとおもう。

 

 高校生の砌。2ちゃんねるという掲示板を見たり、趣味の掲示板などでカキコミをしていたが、ネタにマジレスしたり、ちょっと調べればわかる白けたことを書いてしまうと、「半年ロムってろ」と返信された。そういわれるたびに、瞋恚の焔を宿し「おれここに初期からいるんだよッ!」などとちっとも誇れることではないネット廃人をぶりを主張したものである。かなしい青春である。

 

 いまおもえば、あれは優しさであった。「ネットに来たばかりで右顧左眄しているのかもしれないけれど、ちょっと様子をみていればわかるから。OJTだから」ということだったとおもう。言葉は峻烈であっても裏地にはやわらかい愛があったのである。

 

 しかしおれはここさいきん「ロムってろ」という諌言をあまり見かけない。そういえば不祥事の動画の出所は、バカッターなどと言って、おもにツイッター経由なことがおおいらしいが、おれがおもうに、ツイッターでは「半年ROMってろ」と慈愛に満ちたことを言ってくれる立派な大人がいないのである。

 

 これは困ったことである。ロムらずにネットをするのは、泳ぎ方を知らずに海に飛び込むごとき自殺行為に似ている。いみじき僻事である。現代人はおのれが発信に力を注ぐ一方で、他人への思いやりの心を忘れてしまったのである。

 

 夫子の道は忠恕のみ。だからおれはここでワンポイントアドバイスをする。すなわち、ツイッターやインスタなどのお手軽にネットに介入できてしまうシステムには、「アカウント開設から半年はロム専」にする、というご提案である。

 

 ネットにおいて、ロムるというのは、この泳ぎ方を知るための枢要なステップであるとおもう。まぁまさか本当に半年ロムるひとはいないとおもうけれども、なんかそういうコピペむかしあったよな。三年ちゃんとロムったぜ! みたいなの。律儀なひともいるものである。

 

 ただこれには、ネットにバカが出現しなくなる、という重大な危険性もはらんでいるということを指摘しておきたい。ネットに馬鹿がいなくなったらネットがつまんなくなる。はっきりいってこれが一番困る。

 

 ネットも昔と変わったよなーとか加齢臭じみたことをおもいつつも、しかし、こういった不祥事が散見されるたびに、「ちょっと悪いことをするのがかっこいい」という青くさい男児の美学は、今も昔も変わらないのだなー、ともおもう。それが警察沙汰になっちゃったりでもうたいへん。変わるようで変わらない世界である。

 

人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ (河出文庫)

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