まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

2歳8ヶ月はまだ夜泣きをする

 

過日。夜半。2歳8ヶ月の血族は号泣していた。寵愛する息子である。しかしその泣叫は耳に障る。すべてが判然としない暗闇のなか私と妻はおきあがった。ねむい。

 

じめじめとした闇が支配していた。けたたましい叫び声だけが響いていた。なにも見えない。なので私はブリッジをした。人体がこれ以上曲がらないというところまで胴を持ち上げ、ぽきりと音を鳴らした。すると忽ちにして脊髄に含有されている化学物質が体内にひろがった。それは動脈静脈を通じ私の身体はしだいに「ぽぉ」と発光した。キイロの蛍光色である。すこし胴を振ってみた。かちかちと音が鳴った。

 

そんな光源のもと茶を飲ませ、ともに臥した。すでに2歳児は寝息を立てていた。思えばこの2歳児は夜通し眠るということがまるでない。そっと起床するのならば良いのだが、そんなことは一度たりともない。絶叫と号泣の警鐘で我々夫婦を目覚めさせる。

 

これでも沈着したほうである。風の便りで聞いたことがある。世間様には夜泣きなどまるでしない子どももいるようだ。そして2歳くらいになれば落ち着くというのが民間の流布である。まったくの嘘であった。

 

子どもの生まれ持った性格、備え付けの魂、気概、性質というのは千差万別だとおもう。しかし時代はインターネット情報社会である。さまざまな統計化された情報が大衆という神風を味方につけ、醸成された方法論として猛威をふるう。はじめての子育てにおいて憂慮にまみれた我々保護者は、その流言飛語を信頼せざるを得ない。しかし本当はその子にの性格に合わせた指導をせねばならない。

 

たしかに統計というものは役に立つ。しかし占術と一緒である。参考にしても良いが、それで断定するべきではない。全員とちがうからと言って異端あつかいするな、都合の良い金子みすず論はやめろ、と思う。これは己に言っている。

 

世の中にはこどもに対し非道い仕打ちをする家庭があると聞く。ニュース番組などでもたまに拝見する。しかし、思うに、うちの息子は虐待されるタイプだと思う。もしも星のめぐりでそういう家庭に生まれたのならば、問題児あつかいされ折檻され、挙句の果てには育児放棄されるような子であるとおもう。

どんな方法を駆使したってうまくいかない時がある。そんなときいつも「どうしてうちの子ばかり」と思う。「周りの子はもっと言うこと聞くのに」とか思う。子どもがいながらもキラキラした生活を送る御仁方もおられるご様子である。どうしたって比べてしまう。そうして、どうでもよい他人の子と愛するわが子を比較検討して鬱積してしまう。

 

インターネットの無責任な方法論がある。「子どもが言うことを聞かず、ごはんをこぼしたら叱るのではない。まずは大丈夫と声をかけてあげてください。子どもがその一言でどれほど安心するか」とかいう類のものである。

 

くそだなと思う。そこで安心して次も同様の狼藉をした場合、どう責任をとってくれるのだろうか。ばかである。やめてほしい。こういった理想論で子育てをイージーなものに見立てないでほしい。もっと現実的な泥臭い対処方法しかない場合もある。「言うこと聞かないと怖いおじさん来るよ!」と言うしかない場合だってある。

 

世の中には暇つぶしで子どもを産む方もおられるようだ。それはとても運の良いことだな、と思う。生まれてきた子に感謝すべきだと思う。たしかに艱難辛苦もあったであろう。しかしたとえどんなハッピーエンドを迎えることが出来たとしても、私はこの育児が「暇つぶし」なんてとても言えない。

 

子育てというのはとても個体差が激しい。どんなに釈迦のような性質を持った御仁方であっても手を焼く子どもを引いてしまったならば教育の過程で非人道的な措置も講じると思う。拙宅の息子のように寝ない子だっている。まるで言うことを聞かないエクストリームいやいや期を内在する子だっている。

 

辛酸をなめる毎日である。私の日記を見て「そんなたいへんなら子育てなんかしたくない」という人も居られると思う。そういう人は子育てしなくていい。暇つぶしでできるようなものではない。並々ならぬ覚悟が必要だ。

 

しかしそれでも私は子育てしたいのである。一緒に踊っているだけでめちゃくちゃ楽しい。ごはんを「おいしいね」と言ってくれるだけで破顔してしまう。寝顔をみるだけでたいへんだけどがんばろうと思う。

 

なんだか真面目な日記をかいてしまった。内容も支離滅裂である。なぜだろう。たぶんねむいからである。あと脊髄が折れているから。

フランスの子どもは夜泣きをしない パリ発「子育て」の秘密

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