まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

子どもに「やられたらやりかえす」を教えるのはありだと思う

もうすぐ3歳になる息子がいる。ずいぶんとことばを操作し、人間のコミュニケーションが出来るようになってきた。

 

そんな息子と有料の屋内遊技場などに行く。たくさんのおもちゃが利用できる。息子がおもちゃで遊んでいると、それを横取りする子もあらわれる。息子はそれを奪い返す。修羅の面をして「だーめーよー」と発狂する。つよいな、と感心する。個人的に「やられたらやりかえす」というのは有効だ、と思っている。

 

暴力に対して正統な報復は暴力だと思う。みな付和雷同して「暴力は良くない」というが、そんな当たり前のことを否定すると狂人だと思われる。反論のしようがない。普遍の真理だとおもう。しかし私は殴られたら殴り返すほうが潔い解決方法だと思う。すぐに親や先生に陳情するなんて男らしくない。自分で解決しろ! と思う。

 

むかし。息子が他の子のおもちゃを奪うときもあった。奪われた子は息子を打擲した。息子は滂沱たる涙を流し、凄愴な面持ちで慟哭していた。強奪の報復に暴力の応酬をうけた。よい人生勉強になったと思う。

 

「やられたらやり返す」の真意はその言葉の表面とは別にある。つまり「やったらやり返される」ということである。人からものを奪えば、じぶんのものも奪われる。人を殴れば、じぶんも殴られる。人に不幸を与えれば、不幸が返ってくる。ということを学問して欲しいな、と思う。

 

というか、もしも。「やられたらやりかえす」という概念が巷間に膾炙した場合。逆に天下は泰平、和平親睦。みな平和に暮らせるのではないかな、と思う。みなが自身の行為の最果てに自分のやった行いが返品されてくる。天罰はくだる、と想像できれば、人は人に害を与えるはずもないのである。ちょっと宗教くさくなるが、神の存在は行動の審美眼という部分で必要だと思う。

 

「やられてやりかえしていたら根本的な解決にならない」と言う人もおられるだろう。問題は袋小路に迷い込み、死ぬまで殴り続けるようになる。しかし、これは子どもの教育という人間社会の型形成の話しなので、そういうときになった場合ようやく親が出ればよい。ってか端から子ども同士の問題にいちいち首を突っ込むなよ、と思っている。でもそれが世間では良い親なのかもしれないが。

 

というか、「やられたらやりかえす」という言葉に関してみなマイナスの面だけに囚われていると思う。これは思いやりに関してもおなじだと思う。つまり「ひとにやさしくすれば、やさしくされる」、「善意はやったら、やりかえされる」、「厚意にされたら厚意にすべき」という面でも適用されると思う。

 

「やられたらやりかえす」理論は、その実を考えれば、人の気持ちを考える、ということにつながると思う。もちろん大人になればそれが通用しない、ということも気がつくだろう。人のことばかりを思っているのもどうかとおもうが、自分の身を自分で守るためにも子どもには「やられたらやりかえす」という生き方を、ひとつの選択肢としてもっていてほしいな、と思う。

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