まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

おみやげ制度は廃止しませんか

 めんべいだな、と思っていたら、やっぱりめんべいだった。

 

 頃日。弊社の人間がやたらとめんべいを買ってくる。出稼ぎ、見物、諜報など、事情はさまざまだが、福岡方面に出立している。その土産である。けっしてめんべいに怨恨はないのだが、こうもめんべいばかり買ってこられると、なんだかお土産という制度に疑問を呈したくなる。

 

 おみやげ、というのはなんのために買うのか。おそらく元来、その土地に宿る風土風俗などを疎遠のものに届ける、という意味があるように感じる。しかし戦後、われわれ日本人は激動の二十世紀を経た。各交通網やインターネットの普及により、二十一世紀に生きる民草は、かくも簡単にその土地の名物をゲットできるようになった。

 

 そんななか、わざわざめんべいを食べたい人っていますか? 「うわー、おれめっちゃめんべい好きやねん。めんべいなかったら呼吸できへん。ちょうど切らしてたとこや、ありがとさん」ってなりますか? なりませんよね? ならないんですよ。と念をおしてしまいますが、めんべいはわざわざ自分で買って食うような美味いもの、ではない。そう思うのです。

 

 いただいている身分で恐縮なのだが、なによりも思うことがある。それは、めんべいを買ってくる人びとの背景には「ま、めんべい買っときゃ、まちがいないしょ」という保身。また「面倒くさいからめんべいにしておこう」という捨て鉢な理念。それらが透けて見えてしまうということである。

 

 気持ちはわかる。私も帰郷したさいに職場にもっていく土産はうなぎパイ、もしくはコッコである。コッコはひと箱に入っている量と金額とを脳内コンピューターではじき出し、「ちょっと高くなるな」と思い断念することがある。ゆえにうなぎパイを選出することが多いのだが、私も上記の「めんどくせぇ。これでいいっしょ」的な魂胆がある。

 

 でもだからといって、「九州土産」と銘打ったパッケージに、蒼穹、大海、博多港、豪華客船、とんこつラーメンなどが描かれたジャケ、その中にふつうのアーモンドチョコが入っていたら、「ハワイみやげかよ!」となるので、それはそれで悪手だと思います。俺は逆にロックだと思うけど。

 

 なんだか、おみやげというのは「買いたくないのに仕方なく買っているもの」なのではないか、と思う。社用の場合であれば領収書をきることも出来るが、個人名義の旅行のばあい、そうはいかない。そして、お土産を頂いたら、なんだか返さなくてはならない気持ちになる。「こないだもろたしなぁ」と思う。みやげの連鎖。これは不幸な連鎖なんだよ?

 

   だから、お土産はぶっちゃけなくてもいい。そのような誰も期待しない、だれも買いたくないものが世の中に存在し、経済を動かしている。これが見えざる神の手というやつなのか!? と思いますね。

 

 だからいっそ、もうお土産という制度は禁止したらどうだろうか。

 

 たしかにわかる。せっかく旅行にいったのだから、それを証明するなにかが欲しいのはわかる。自慢したい気持ちもわかる。「どこ行ってきたの?」なんて会話がしたいんですよね。それをわざわざだしぬけに「昨日サンマリノ行ってきた」なんていったら自慢だと思われるので、しれっと御土産でその旅情を匂い立たせ、相手から「えーどこ行ってきたの?」といわせようとする姦計としては、とてもよい策略だとおもいます。でもこっちも腹蔵なくいえば、そんなの言わされているのですよ。そこで「ありがとうございます」オンリーだと、コミュニケートできない愚鈍な人間だと思うでしょう。だから言うんですよ仕方なく、どこいってきたの、なんて。なんでもハラスメントにするのが流行ってますけど、これはトラベルハラスメントですね。トラハラ。虎腹。おれは業腹。

 

 ちょっと話しが逸れましたが、私は思う。おみやげはいらない。特に相手の「めんどくささ」が匂いたつような御土産はいらない。ちゃんとおれのことを思っておみやげを買ってきてくれるなら、もっとちゃんとした壺とか欲しい。「ま、いっか」的な御土産はその貴殿の胸裏にある保身や捨て鉢な理念が透けて見えてしまうので、逆にやめてくれ。「気を遣ってくれたんだ」と気を遣ってしまう。

 

   というかもう禁止。御土産禁止。おれがこの国の第一書記になったら、おみやげという制度は禁じます。もし行ったものがいたらノー裁判で極刑です。あと歩きタバコをする人間は問答無用に殴ってよいことにします。おれに権力をくれ。