まだロックが好き

まだロックが好き

おめおめと生きている日記

「あいつ、おせーなー」と言う三歳児

 さいきん息子の耳コピがすごい。耳にいれた音を、すぐに口から吐きだせるようになった。しかし、これはこまったことである。そして、ちょっと反省をしている。

 

 妻が所要にて不在時、息子がだしぬけに「あいつおせーなー」と言った。むろん、これは彼のほんとうの声ではない。かつて私が言ったことばである。つまりこれは私の模倣である。

 

 あんまりそうゆうことをいうのはよくないんじゃない? とおもった。なぜなら、息子の前で口さがない父親でいる、ということが妻にばれる。でも、べつに妻にばれてもそんなに困らない。ふつうに言うし。「きみなにしてたの? おそくない? どんくさくない?」みたいなこと。妻とは仲良しです。

 

 じゃあなんで息子に「あいつおせーなー」といってほしくないのか。ことばの粗暴? いいじゃんね、べつに。現代語でふつうに言うじゃんね。それよか私は「うるせぇ!」とか「ばかやろう!」ってぐあいの万丈龍我の模倣が気になる。

 

 しかし、どうしても「あいつ、おせーなー」と息子にいってほしくない。ふと気がついたのだが、これはけっきょく自分の保身のためではないのかな、とおもった。

 

 つまり、「あいつ、おせーなー」と子が言う、ということは親がそういった不平を子どものまえで平気で洩らす、ということであって、人の料簡はふだんの言動ではかれるため、そんなことを飛耳長目な三歳児のまえで言う親からは、あまりうけるべき薫陶がないのではないか、と三歳児の「あいつ、おせーなー」を聞いた周囲の関係者におもわれて、けっか「あいつ、おせーなー」という父親というのは、よい父親ではない、わるい父親なのではないか、という帰結になり、そうなると父親失格の烙印を押されてしまう、それってやばいじゃん! なんてことに思い至り、ってゆうことは、おれ、けっきょく自分の尊厳のために子育てしてるんじゃないのか? とすごい発見をしたのである。

 

 親はこうあるべき! みたいな幻影はもっていなつもりだった。しかし、私は自分が好い父親だと思われたいがために、子に躾というものをしているのにすぎないのでは? とおもった。まぁそれでもいいとおもうけど。ほんとうに子をおもってする躾ってなんだろうな、とおもった。まぁたぶん子どものまえで「あいつ、おせーなー」とは言わない。「帰りがおそいね、しんぱいだね」とか言う。まごころですよね。

 

 そういったことをふまえて、私がもっとも子どもに言ってほしくない科白は、やっぱり「あげぽよ」だな、とおもった。

 

 これは先日、最終回をむかえた宇宙戦隊キュウレンジャーという特撮ヒーロー番組の登場人物バランスがときおり使用するのだが、「あげぽよ」とか「うぇ~い」みたいな軽薄な流行の感嘆詞に付随する、人物の軽挙妄動さかげんには、まったくもって不快の念をいだいており、私自身がそのような軽い男だとおもわれたくない! という念願が、たぶんに含まれているのではないか。やっぱそういうことなんだな、とおもった。

 

 そういえば、近所に鳩のなく信号機がある。青になるたび「パッポー、パパッポー」とメカ鳩の音声がするタイプのものである。それに対して鳩のなかない信号機もある。この鳩のなかない信号機をみた三歳児が「パッポーていわない! でんちきれちゃったのかなぁ?」と言った。

 

 電気コードのないものはすべて電池で稼動している、とおもっている三歳児の愛くるしい稚気に気が狂うかとおもった。が、しかし言下に「だれかちゃんとやってよね!」と言っていた。

 

 これはおそらく妻が、さいきん雪かき作業にたいしてクダを巻いたものであり、それを三歳児が模倣したのだろう。「雪で足がすべるから、だれか雪かきちゃんとやっていよね」からアレンジした「でんちきれちゃったなら、だれかちゃんとでんちの交換やってよね」である。

 

 子は親の鏡だ、というけれど、こうやって子どもは親のふだんの言動を水鏡のようにうつしていくのだなぁとおもった。「ぱぱ、ちゃんとおゆにもどしてよね!」とは、私が風呂の洗浄のさい、シャワーの温度調節のバルブを元にもどさなかったことにたいしての妻からの諫言であった。もう、いろいろ反省してます。

宇宙戦隊キュウレンジャー 戦隊ヒーローシリーズ04 テンビンゴールド

宇宙戦隊キュウレンジャー 戦隊ヒーローシリーズ04 テンビンゴールド