まだロックが好き

まだロックが好き

おめおめと生きている日記

THE BACK HORNは退廃的な光を叫ぶ イキルサイノウ

 

まず始めにこのアルバムが必要な人を限定したいと思う。

THE BACK HORNというバンドの特性上、誰にとってもオーケーだという音楽を奏でているわけではないからだ。

 

とにかく日常がつまらなく感じている人間。やり場のない怒り、悲しみ、そして愛を燻らせている人間。

そしてなにより、生きることを死ぬほど考えている人間。

 

これらがこのアルバムが必要な人間だと思う。

 

 

 

 

イキルサイノウ

イキルサイノウ

 

 

彼らがこのアルバムで完成させた情景はいつだって、その退廃的で、しかし一筋の救いにも似た光の世界に連れて行ってくれる。

タイトルもそうであるが、随分簡素に誇大した表現を使ってしまった。まぁ何度も添削した結果残った言葉がコレだったのでそのままにしておく。

 

汚いバックホーン

 

バックホーンは人間の醜さ、汚らしさをうたっている。

まず1曲目の「惑星メランコリー」では滅び行くこの星の、人間という憂鬱をファズがかかったギターのハーモニクス奏法の始まりと共に「俺たちは害虫 燃え尽きて死んじまえ」と叫ぶ。サイレンのようなギターの音色がその衝動における破壊への警鐘として鳴り響いていく。非常に痛々しくも悲しい人類へのラブソング。

 

3曲目の「孤独な戦場」では軽快なスイングリズムとは裏腹に「吐き気がする程、人間だらけ」とぬるいフォークソング撒き散らしている奴等や、金を募金しろとうるさくせがむババァを蔑み、罵倒しつつ、一方で「俺が怖いのはただお前らが人間だってことさ」とうたいつつ、暗闇の中ドアを叩き続けるその姿は、まるで救いを求めているかのような曲である。ぼくは混雑している渋谷のスクランブル交差点でいつもこの曲が脳内を駆け巡る。

 

6曲目「プラトニックファズ」ではその名の通り重たい歪みを、コミカルな含みを持たせた好色的なフレーズを解き放つ。性的欲求を探究心と言い換えて、いや、摩り替えて、奇妙に毒々しくゆらゆらと揺れる炎を見つめるような狂気をカンジさせる曲だ。

 

破壊衝動、嘲笑と救い、性的欲求は誰しもが人間として根幹部分に持つものだが、それらは社会というモラルと調和の中で、淫らにさらけ出してはいけないと教えられた。そんなぼくたちヘッドフォンチルドレンには「神様、俺達は悲しい歌が気が触れる程好きです」とうたうバックホーンの音楽に同意せざるおえない。

 

儚いバックホーン 

 

そんな人間の死を、穏やかに優しく包み込むように、心の原風景に訴えかけるようにうたうのが4曲目の「幸福な亡骸」だ。

渦巻く感情を抱いていた人間もその死は随分とあっさりしたもので残るものは遺族の悲しみとその過程だけだ、という淡々としたモノクロの世界。そういった情景を描き出すのにバックホーンというバンドは長けている。

 

人間の「負」の部分を描くことはそれが生きる希望を描くことでもある。

なぜならロックミュージックは人間賛歌であるからだ。

 

光差すバックホーン 

 

2曲目の「光の結晶」は歌詞の内容をそのまま捉えるならば、ふたり乗りの自転車で商店街を駆け抜け海を見に走る、というだけの曲だ。

しかしそこには、生きる日々の何気ない瞬間という疾走感が彩る鮮やかな、希望なんて言う言葉だけじゃ足りないそんな日常の光に、躓きながらも何度でもキラメキの世界に手を伸ばしていく、希望をつかもうとする姿を現していく。

 

5曲目の「花びら」は10ホールズハープが響き渡るさわやかなバラードだ。激情を叫び続ける彼らがこのようなさわやかな感傷的なサウンドに走ったのは前作アルバム心臓オーケストラ収録の「夕暮れ」からだったと思う。両作ともタイトルに印象付けられるようなギターのアルペジオがやさしく響きわたる。ここでもポジティブな希望が描き出されている。それは悩みぬいた自問自答の結果か、「遠回りしたって 時には立ち止まればいいさ」と自分自身にやさしく答えを導き出したような印象を与えられる。

 

異色のバックホーン

 

異色なのは8曲目の「羽根~夜空を越えて」だ。

そのまま歌詞を受け止めるのであればこれはクリスマスのラブソングだ。

かつてのバックホーン、インディーズ時代「魚雷」などで「生きながらえては腐って死ね」なんてウタっていた彼らからすると心配になるほどの甘いラブソング。

初めて聴いたときに、どうしたバックホーン!?レコード会社に作らされたか?と思ったぼくも今では生きることを考えたなら「愛」はとても重要なテーマであることからこの曲が生まれたのは必然であると感じられる。正直、飛ばす曲だけど。

 

生きる意志のバックホーン

 

バックホーンらしさとはなんだろう、と考えたとき「生きることへの意志をウタうバンド」というイメージが紡ぎだされる。

 

そのイメージがぴったりなのが7曲目シングルにもなった「生命線」、9曲目「赤目の路上」だ。

「生命線」はミドルテンポでしかも淡々と同じコード進行で進んでいく曲だ。

まさに繰り返しの淡白な日常を描き出している。しかしそこで気が付く自分の「体温」。そこに絶望的な毎日でも生きつづける意志を見つけだす。いや、最悪の毎日を愛せる為の口実のようにその「体温」に意味を見出しているのだろうか。

 

「赤目の路上」も同様に強い生命エネルギーを感じさせる。

四分音符で刻む思い切りの良いリズム、気だるげながらも芯の通ったメロディ。

そして「死に行く 勇気なんてない それなら 生きるしかねぇだろ」

このフレーズだけで十分だろう。

 

問題作と珠玉の名曲

 

最後に10曲目「ジョーカー」からラストの「未来」についてだ。

 

「ジョーカー」の衝撃は今でも忘れられない。

バックホーンの音楽が必要な人ならば抱いたことのある展望のない将来とそこにある強制的な未来への無力感。

その具現化した歌詞は実に攻撃的なリフにのせてうたわれている。

「居場所なんて何処にもない」での絶叫は、もはや音楽とかそういったレベルのシャウト的な「叫び」ではなく、もっと現実的な、なまなましい、打ちひしがれた、生ぬるい体温を感じられるリアルな「叫び」である。

 

「未来」にはバックホーンというバンドの真髄が現れている。

たしかに激しい曲が多い。コバルトブルーなんてのは彼らのキラーチューンだしいつ聴いたってやっぱり格好良い。

だけどぼくはバックホーンの音楽の最たる部分はこの儚さをまっとった美しい曲たちに現れていると思う。

「桜雪」「ガーデン」「砂の旅人」これらは全部B面集に収録されてしまっているが、これこそバックホーンの真髄であり最大の武器であると思っている。

 

B-SIDE THE BACK HORN

B-SIDE THE BACK HORN

 

 

そしてこの「未来」という曲の完成度の高さは生半可なものではない。

儚げな美しさのメロディに最も似合うボーカルのかすれたけど瑞々しい透明な声、しかし力強くも感情的にうたいあげるサビは圧巻だ。

真っ白なイメージを連想させられてしまうような歌詞の世界観。

全ての楽器も音符をひとつひとつ置いてくるように、大事に演奏されている。

とくに最後のドラムが描き出すこの曲の終末感にはやられた。脱帽。

 

とても美しく力強い曲。アルバムを丸ごと聴けないという方はまずこの曲だけでも聴いてほしい。

 

総括

イキルサイノウ。

これはジョーカーの歌詞に出てくるフレーズでありアルバムタイトル。

生きる才能。生きる為の才能。生かすべき才能。才能が生きる。

 

カタカナ表記によりさまざまな含みを持たせたのだろう。

その思惑の通り、ぼくはいまだにこのアルバムタイトルが真に意味することがわからないままこのアルバムを聴き続けている。