志村が鬼籍に入ったのちのフジファブリックについて問われれば、「あんま聴かないなー」などと言って皮裏の陽秋。しかし内実、「フジファブリックは志村のバンドじゃ」と夜叉のごとき煉獄の怒りを燃やしていたのである。
衷情を披瀝させれば、おれはバンド名を変えてほしかった。ジョイディヴィジョンのごとくである。イアンカーティスというカリスマを失ったジョイディヴィジョンはニューオーダーと名前を改め、音楽性も進路を変更し、テクノミュージックのレジェンドとなった。
だからフジファブリックもバンド名を変えてほしかった。志村のバンドを上書きしてほしくなかったのである。邪馬台国の遺跡のうえにあべのハルカス建築するなよってかんじ。それに山内総一郎と金澤ダイスケならば、志村とはちがう方向性で、素晴らしい音楽を構築していけると信じていたからである。
ゆえに、三人になったフジが「志村っぽい」曲を発表するたびに、いつまで志村の幻影に追従しているのだ、と内心舌打ちを放ちたくなったのである。しかしこれはおれの増上慢であったことがのちに判明する。
「F」というアルバムを聴いた。とてもいいアルバムだとおもった。最近おれは自分で気がついたのだけれども、おれは音楽に込められた「情熱」というぶぶんにもっとも傾聴の主眼をおいている。むろん、どのバンドも「情熱」を音楽に込めているとおもうから、「おれ好みの情熱」と言い換えたほうがいいのかもしれない。
聴いておもったのが、フジファブリックの三人がもっとも志村のフジファブリックを意識しているということである。志村のフジファブリックへ情熱を捧げている。三人体制になったのち、いままでそういう曲があったのかもしれないが、今回とくに「手紙」という曲で、その情熱をありありと感じてしまったのである。
きっと曲に行き詰ったとき、彼らは「志村ならどうする」と考えているのだろう。そういうことを歌詞で言っちゃってる。おれはこれは音楽をつくる人、ってゆうか創作をする人、大きなくくりで言えば男として、とてつもない決断だとおもう。
なにかを創るときに「自分らしく」とおもう。きっとゼロからものごとを産出できるひとは稀だとおもう。みんななにかしらの影響を受けて作品を創る。影響が現れてもそれを公言することはあまり無いとおもう。けれどもフジはそれを言っちゃってる。並大抵の覚悟ではないとおもう。
おもうに、フジファブリックは己の個性を押し出すことを二の次にして、フジファブリックという生命体を生かすことを命題としているんじゃないかしら。だからやはり志村を意識している。たぶん彼らは今でもずっと、フジファブリックはおれたちだけのバンドじゃない、とそうおもっている。
そういったことをなんとなく感じてしまった。というか漸く気付いたのかもしれない。そう感じてからは、堰を切ったかのようにフジファブリックの三人への愛情が滔々と身に流れ出したのである。おまえら、好きだ。
「Walk On The Way」とかもそう。おれのなかで四度あけたツーコード感は志村ぽいなーとかんじてしまう。たぶん「茜色の夕日」とか「若者のすべて」の印象である。志村ってあんまコードをたくさん使うほうじゃなかったような気がするし。
余談になるが、おれは「若者のすべて」という曲をあまり聴かない。あまりにも有名すぎるからである。おれはベストセラーなんて絶対読まない。なんて気概でいたのだけれども、ふと聴いてみると名曲なことこの上なく、ほんと感動しちゃう。ちなみにコンビニ人間は超おもしろかった。
他を拝して自を賞するのは究極にダサいが、さいきんの曲は、音楽をいかに「考えるか」に焦点が絞られているような気がしてしまう。それに比して「若者のすべて」はノーガード。シンプルすぎる。それなのに志村のこの曲は、彼のうすぼんやりした叙情性と、変質的な狂気がときおりみせる静謐ぐあいが並列しているようで、名伏しがたい。ほんとうにすごいとおもう。イントロなんてピアノをポンポン等間隔に鳴らしてるだけだぜ。だれもこんな曲つくれない。どんなにAIが発達したり、音楽の専門化が分析しても素材が朴然としすぎて「なんでこんないい曲なんだ」って、原因はわからずじまいだとおもう。
スマパンみたいなストリングスの入り方だな、とおもった「破顔」は単純にいい曲だとおもった。「LET'S GET IT ON」みたいなのは、さいきんのフジのイメージでファンク系というか、どことなく偏屈な志村感もある気がする。「東京」もファンク感あるけれど、ネオンの翳の物憂げな息遣いが聞こえるようでとても好きです。そういえばあまり音程を上下させないようなメロディは志村っぽいさがある気がする。「Feverman」や「前進リバティ」みたいな奇を衒っているかんじのおまけソング感もフジファブリック感ある。あと山内総一郎はディストーションの効いたきたねぇソロを弾かせたらまじで天下一品だとおもう。
金澤ダイスケのポップネスはすげぇとおもう。おれは「クロニクル」というアルバムも好きなのだけれど、あれの立役者は金澤ダイスケだと勝手におもっている。あのアルバムで志村の直球のロックサウンドをフジファブリック風味にしているのはかれの鍵盤フレーズだと個人的におもう。「恋するパスタ」は、そんなかれのポップネスがぎゅっと濃縮されて水際立っている。この人は志村とはちがった大衆性を持ち合わせていて、超いい作曲者だとおもう。あとやっぱ山内総一郎は他人の曲のほうがギターが生きる。かっこいい。
「High & High」もクロニクルっぽくて、そのときのフジっぽい。志村は歌が下手糞で、子音を置いたあとに、母音で音程を合わせるような歌い方をしているような気がしている。井戸から重く水を引き上げるかのような、無理やり引っ張り上げるような音程のあげかたとか。そういうふうな志村味も入っているような気がして、おれは今のフジファブリックが、ほんとうにフジファブリックというバンドを好きなんだな、とおもってしまう。ちなみにおれはフジファブリックを歌うと口元が志村になってしまう。口角下がるかんじ。
もちろんかれらが再始動したときの「エコー」という曲は、音楽的というよりも一介のフジファブリック好きとして、聴くべきものがあった。ちょっと泣く。しかしそれ以降のフジファブリックについては、肯定的な感情が芽生えなかったのが正直な気持ちである。
しかし、この「F」を聴いて、おれは今のフジファブリックが好きになった。彼らはずっと志村と共に生きているのだとおもった。フジファブリックでいつづけることは、自分たちらしい曲を創るよりも難儀なことだとおもう。でもそれってかっこいい。彼らがフジファブリックであり続ける意味がわかった気がしたアルバムでした。