2歳の息子はイヤイヤ期まっさかり。
ごはんは食べない、服は着ない、風呂に入らない、寝たくない。
しかし、拒否権の行使とは、人間が本来もっている生存本能の一環である。
なんでもかんでも受け入れオッケー!
お上からくだる指示命令はぜったい!イエッサー!
なんてやってたら疲労こんぱい。力尽きて死んでしまう。
某巨大広告会社の悲しい事件みたいに。
しかし息子はまだ2歳になったばかり。
だいたい大人に力づくで制されてしまう。
そんなときにどうするか?
暴れます。
のけ反り。エビ反り。寝そべり。
それでもダメなら、パンチパンチパンチパンチ。
どこで覚えてきたのそんなの…?アンパンマンかい…?
世の中の大半の問題はカネで解決している。
人を傷つけた、はい、慰謝料、賠償金。
俺はやりたくないからオマエがやれ、お給料。はい、10円。
もちろん、もし息子に財力があれば、私は従う。
「どうして小生を保育所なる場所に委託するのか。両親共々労働に従事している様子を察するに、さては金銭の工面に労をなしておるのだな。よしわかった。小生のポケットマネーより金2億差し出そう。なぁに苦しゅうない。受け取れ。代わりと言ってはなんだが、本日より小生と共に過ごす時間を増やすのだぞ、わかったか」
はは~ありがたき幸せッ!ご芳志、拝受いたしますッ!!
である。
しかし現実、息子に財力はない。親にもない!残念だったな!息子よ!
世の中には絶対的な権力がある。
屈せずにはいられない絶対的”力”がある。
もし息子に権力があったなら…。(←ドリフのコントみたいですね!)
「朕は今時分、入浴の気分ではない。愚民共を率いた人間チェスがしたいのじゃ。なに?就寝時間?なにをいっておるのだ。この国の時間軸は朕にあるのじゃ、朕は国家なり。控えおろう、我が名は太陽神。」
御意。
である。
しかし息子に権力はない。親にもない。知り合いに代議士の先生とかいない。ごめんな。
かかる具合に、財力も権力もない息子は残された最後の”力”、暴力を行使するのである。
これまさに生存本能。
人類は文明を築き、法の秩序に守られている。
法に守られたきゃ、法を守るしかない。
社会とは共存の世界であり、共存しなければ生きていけない。
そこで我々親は子どもに「人を叩いちゃいけませんよ」と教育するのである。
(ろくに勉強もしていない私が「教育する」などと言うのも、なんとも奇怪でおこがましい話であるが、ちょっとそのへんはスルーしてくれ)
しかしどうだ。
社会に溢れる陰湿なジメジメしたヒトのアブラくさい影。イジメ、パワハラ、村八分。
さような闇に息子が晒されたとき、「なにがなんでも暴力はいけない」と言えない自分がいる。
ヤなことされたらぶん殴れ。と、言ってしまいそうなのである。
権力、財力、暴力は三角の関係にあるのがよろしい。
権力で財力を成し、財力で暴力を買い、暴力は時として権力となる。下克上。
このサイクルで世界のパワーバランスは成り立つと思うのだが、どうだろう。
しかし権力、財力、暴力の均衡は崩れている。
財力で全てまかなえる時代。資本主義の末路。
力なき人が抵抗できない、この時代、この国に生れ落ちた私たち。
電通の過労死もそうだ。
もし彼女に上司に抵抗する力があれば。
権力という印籠をチラつかせて「私の親、実はこの会社の社長の恩師で、しかも弁護士で、社労士で、イルミナティなんです。」
これで解決。
もちろん財力があれば働く必要性なんてない。
カネさえあれば(というか将来の不安を解消できるものがあれば)もし理不尽で不条理で不合理な指示命令をされたときも
「あ、そう。じゃあ辞めたるさかいに。さいなら。達者でな。アディオス。」とできるワケである。
もちろんそんな持っている人間は少ない。というかいるのか…?
でも誰しもがもっている暴力。
「大変不愉快きわまりない発言とみなすので、いまからオマエを殴る。これは弱者のみに与えられた最大の特権であり、赦しなのだ。」ぽかっ。
刹那的解決であるが、平等で、故に、たいへん美しくも感じる。
その「ぶん殴られる恐怖」が社会に浸透していれば、そもそも上司も無茶言わないだろう。
誰もが抱く未来への不安を盾に、権力をふりかざすバカ。
ソイツをぶん殴れる「赦し」が与えられるのであれば。
意外とちょっと世の中良くなるかもしれない。
だからみんな2歳児のときの反抗心を思い出せ!ゲットバック2歳児!
本当はストレイト・アウタ・コンプトンという映画を観て、ときとして音楽と言葉は暴力よりも凶暴だ!社会に問題提起していこうぜ!って内容を書こうとしたのだけど、どうしてこうなった。
あ、映画はおもしろかったです。
チンパンジーとキツネとゴリラが言語を駆使し、謀反を繰り返し、いかにして野生の頂点に立ったか、という伝記映画。ゴリラ役は本当のゴリラの息子。必見。