急に「育児ブログも兼ねている!」
と思い出し、つらつら書いている。
人が人として社会で生きていくには「ゆずりあい」の精神が必要である。
初等教育の道徳、と呼ばれるものだが、この「道徳」と称されるある種の価値観は、学校で画一的に洗脳されていいものなのか、という疑問を抱く。
まぁ今日はそんな話ではない!
息子が同じくらいの年齢の子どもたちと遊ぶ場面に出くわす。けっこうある。
公園、近所、保育参加。ショッピングモールのキッズコーナーや、出先のそれらである。
公共のおもちゃ。
これらで遊ぶことは多い。
潔癖症の私は「だれがなにさわった手で遊んで、どんな菌がついてるかわからない」と思い、あまり遊ばせたくないのだが、まぁしょうがない。
表題の「かーしーてー」である。
公共のおもちゃなのだから、ゆずりあいが大切だ。
頭の悪そうなクソガキが息子に馴れ馴れしく「かーしーてー」発言をすることがある。無論、息子は熱中。渡すわけがない。
そんな時私は否応なく、「いーいーよーでしょ?みんなで仲良くあそぼう?」と息子を諌めてしまう。
これが本当に道徳教育なのだろうか?
一方的な押し付けじゃないのか?
かたや、息子がお友達に対して「かーしーてー」を発することもある。
おともだちは「やーだーよー」である。
クソガキが。と思うが、そんな時私は「いま、おともだちがあそんでるから後でね」
なんて言ってしまう。
完璧に理不尽だ。
おかしい。
間違っている。
わたしが。
同様にすべり台の割り込み問題もある。
公園にてすべり台を駆使し遊戯に惚けていると、どこの馬の骨かわからない汚ねぇクソガキが割り込んでくる。
そんな時、私は息子に「みんなでなかよく遊ぼうね」で譲ってしまう。
逆に、息子が割りこもうとする時もある。
そんな時、私は「順番でしょ!」なんて叱ってしまう。
自分はゆずらなきゃならんのに、自分はゆずられない。
不条理である。
世の中間違っている。
息子なかで世界は親で形成されているといっても過言ではない。
そんな私が間違っている。
己でわかっている。
なのに、この体たらく。
ゆずりあいの精神なんてのは、一方的な搾取に対する我慢なのか?
愛は与えるだけで、与えられないのか?
息子は思っていることだろう。
申し訳なく感じている。
我慢することも、もちろん大事だ。
彼の人生は長い。ある程度のストレス耐性はつけてあげたい。
しかし、この対応は「他の子はいいのに、僕はダメ」的な対応である。
可哀想なのである。書いていて不憫になってきた。
かといって、私が横から「息子が遊戯に徹しているので、貴様は他のことで余暇を潰せ。」などとは言えない。
周りの親の目があるから。
いじめていると思われる。泣かれたらどうしようもない。
でも息子を守るのは私しかいない!
息子は優しく、強い。
割り込まれたくらいじゃ泣かない。
ただおもちゃを取られたらさすがに泣く。
もうすこし雄弁になれば、彼自身が解決できる時期がくるはず。
それは結局、息子の成長に解決を求めているだけである。時間の経過を待っている。
これが親か?でもしょうがないよな。
なんて自問自答をくりかえし、答えの出ないまま夜が明ける。
てか、クソガキはちゃんと親が見てろよ!
という愚痴ブログ。
でもゆゆしき問題だと思いませんか?