まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

「普通の家庭に育った」っていうヤツだいたい実家金持ち説

 

family

 

なんと腹立たしい。むかっ腹がたっている。憤慨ここに極まれり。無自覚な謙虚さに、わたしは傷付けられた。

 

昨日のことである。会社の若い衆と談笑していたさい気になる一言があった。

「あー、でもウチ、ふつーの家庭ですから」

ふつーの家庭。もうなんの話かも覚えていないが、このフレーズだけがあたまに残っている。ふつーの家庭。リフレインしている。ふつーの家庭。なんだそれ。当てつけか。

 

彼はたしか父母が健在。大卒。弟あるいは妹がいる。つまり4人家族。そしてその弟か妹も大卒。しかもふたりとも私大であったか。そして奨学金を借りていない。さらにいえば都内分譲マンション住まい。

 

すごい。きみのパパすごい。これが世の中のふつーの一家なのか。これは金持ち家庭ではないのか。これがふつーならばふつーという壁、たかすぎないか。

 

妻にこれを話したところ、同じような経験があるとのこと。

妻は有名私大に通っていた。かつてそこで出会ったものどもで小隊を組み、東京ディズニーランドなる遊戯施設に赴くことになったさい、みななぜか割引効果の発生する株主優待券を所持していた、とのこと。さらに言えばみな奨学金も借りていない。しかし、かような人々が口を揃えておっしゃるのは「ウチはふつーの家庭だから」。

 

はぁ?である。

私も妻も貧乏な家庭に生まれたので、貧しさを自負してはいるが、いちおう中流階級だと思っている部分もあり、しかし二極化、つまり日本の家庭環境における中流階層ってのはもっとも少なく、しかし意識のみは中流階級である、という事実は周知のものであると存ぜられるが、彼ら富裕層における「ふつー」発言は、おそらく謙虚さから湧き出たものであり、たいへん日本人的なやわらかさを含んでいるのだけれど、その生真面目な謙遜は我々のような「持たざるもの」の意識下に存在する貧困のポテンシャルを顕在化させるものであって、嫉妬、やきもち、ジェラシーを勃発させ、それらは「じゃあお前らより経済パワーのすくない我々はふつーではないのか」なんて思いに替わり、つまりその思いというのは怒気というものであって、怒りのアドレナリンで気がつかなかったが、いつの間にか心にキズを負ってしまっていた私はその生々しい傷口をあらためて凝視したさい、悲しみと、やるせなさ、そして、また怒りの噴気が上昇している様をありありと認識しながらこの日記を書いているしだいである。つまり私は激怒している!なんとかプンプン丸!!

 

いま、書いていて思ったが富裕層における「俺んち、ふつー」発言はきみのパパやママに対する侮辱でないのか。汗水ながして築き上げた富を「ふつー」で一蹴するのはどうなのか。きみの大卒はきみの力もあるだろうが、そのカネを工面してくれた家庭環境に対して「ふつー」とはどういうことなのか。

 

たしかに私は貧困家庭に生まれ育った。しかしある程度はふつーだと思っている。「ウチは貧乏だからなぁ」って言うが中流意識はある。

でもディズニー優待券をにぎりしめながら「ウチはふつーですから」なんて言われると私の中のふつー、つまり中流意識が崩壊する。

 

貧乏だったがある程度ふつーの生活だと思っていたのは、「ふつーの生活」というのが想定としてあったワケで、それに近い生活がそれなりに出来ていたし、一飯に貧することもなく「ふつー」に生きてこられたからであり、彼のようにあけすけな株主表明をしながら金粉ごはんを食べるような生活とは思ってなかったからだ。金粉ごはんを食べていたかは知りませんが。少なくともウォシュレットの導入はウチよりも早かったでしょう。それらはいわゆる金持ちのカテゴリーだと思っていたのですよ。

 

そういや貧乏人ははっきり言う。「うちは貧乏」。そして貧乏エピソードは自慢になる。奴隷がその足かせの鉄球の大きさを自慢するように、社畜が労働時間を自慢するように。いやみがないから、だろうか。

しかし富裕層は「ふつー」と言う。謙遜だろう。「うちはカネあるからなぁ」なんて言わない。いやみだから、だろうか。

でもそれって日本の中流意識は富裕層が作っている、ということなのか。

 

無自覚なのか。家庭環境とは一種の宗教だ。私はそう思う。常識とかそういうのは洗脳だ。いつのまにか刷り込まれている。だから無自覚なのだろうか。ふつーはそうやって無自覚に作り上げられるのだろうか。

だから私は富裕層に自覚を持て、と言いたい。その無自覚な謙遜は貧困層をキズつけるので。

 

とりあえず、ディズニー優待券を保持し、奨学金を借りておらず、金粉ごはんを食べている家庭はふつーじゃなくて、金持ちです。覚えといてください。