まだロックが好き

まだロックが好き

おめおめと生きている日記

失われた日本の文化

蟹行文字の横溢に辟易している。

アジェンダ。メソッド。コンプライアンス。ナイキ。アディダス。ジーショック。

 

意味不明なカタカナ語ばっかり使ってんじゃないよ!と私はいつも慨嘆している。いつまでこうして亜米利加からの精神的植民地支配をうけているのか。

 

だけど俺も大人だ。世の中のことがだいたいわかってきた。長いものには巻かれる。ゆえに「しかたない」なんて諦めている。

 

そんな過日。自家用車で高速道路を滑っていた。年忌法要であった。

 

ふるさとは静岡である。3時間かからないくらいなので、べつだん休憩することなく行ける。だがしかし、わたしも子持ちししゃもなので、蓄積されたこどもの憂さを晴らすために休憩場へと取舵をきったのである。

 

ふと仰ぎ見るのはサービスエリアの緑の看板である。さまざまな情報を意味する象形文字が印字されていた。休憩を意味するのは「コーヒーカップ」の象形文字である。

 

そして私は嘆息した。コーヒーカップで休憩を表現するなんて。嗚呼やはりこの国にいる以上、欧米文化からの支配からは逃れられないのだ、とあらためて絶望したのだった。

 

本然として、日本文化の休憩は古来より茶屋でするものである。

だから象形文字で表現するのならば、コーヒーカップよりも湯呑みのほうが正しいのではないだろうか。湯呑みから湯気がひょろひょろと三本ほど出ているマーク。それが「大和」の心粋というものではないだろうか。もしくは串に刺さった団子のマーク。

 

だけどもネクスコ東日本はやられてしまっている。亜米利加の醸し出す瘴気に毒されている。ネクスコってなんなんだ!

ゆえにコーヒーカップを大々的に「休憩」の意味とみなし、グローバライゼイション!なんつって、自分たちの国籍を忘却してしまったのである。なんと禍々しい出来事であろうか。

 

まぁでもコーヒーカップはまだいい。許せる。許せるってどの立場から物を申しているのか。この国を、日本を愛するものの立場から物を申している。

でも私だって休憩所でコーヒーは飲む。スタバだって行く。拙宅にはハリオのコーヒービーカーだってある。缶コーヒーはタリーズのやつがいちばんうまい。世間的な認識であっても「コーヒーの印字ニアリーイコール休憩」という式は間違いではない。

 

だけどこれだけは言わせてほしい。そんな小さな叫び声をあげるために私は生きている。サービスエリアの食事を意味するマーク「ナイフとフォーク」、あれは明らかに詐欺である。

 

サービスエリアで食えるものはたくさんある。外周部には露店がでているし、建築物のなかにはフードコートなんていうのもある。まぁとにかくたくさん食べ物がある。日本のサービスエリアをひとつアフリカに出展すれば、約30万人の飢えた人々を養うことができる、というのは勝手な妄想ですが。

 

そこで食えるものはだいたい、そば、うどん、ラーメン、牛丼、ハンバーガー、カレー、串に刺さった獣肉、団子、パンなどであり、ほぼ箸と手づかみで食すものばかりなのだ。

 

ということで、サービスエリア内でナイフとフォークを駆使してありつくような食事はほぼ皆無。ゆえにこの表記は詐欺である!はい!ネクスコ東日本を完全論破!どん!

 

もしかしたら、ナイフとフォークの表記は外国人観光客へむけた配慮なのかもしれない。しかし「箸」の存在はこの七つの海洋を通り越して伝播しているものである。誇るべき日本の文化である。

 

ではなぜナイフとフォークの印字を使用するのか。

おそらく、私たち日本人は敗戦爾来、意識下に植え付けられ欧米文化に疑問をもたなくなってしまった。その意識下にある「食事はナイフとフォークが基本」という概念を知らず知らずのうちに脳みそにインプットされているのである。

 

こうして日本人は箸の持ち方を忘れ、国民性による文化は衰退し、冒頭で申し上げたとおり日本言語が消滅し、国が滅びる。

これはGHQ、マッカーサーが来日してから暗に進行している権謀術数、亜米利加の支配である。

 

「絶対にアメリカになんかに染まらない」

そんなことを思いながら、私は亜米利加の楽団「鷲達」の名盤「民宿カリフォルニア」というアルバムを聴き、人生ゲームにでてくるようなアメ車で東名高速道路を駆けたのだった。

Hotel California

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