忸怩たる思いであるが、私の家庭は妻にも働いていただいている。
私だけの収入では家計をやりくり、露命をつなぐことができないからである。
つまり共働きなのだけれど、世の中にはそんな共働きの家庭が増加しているようだ。
ゆえにどこの保育園も園児の足が浮くほど施設内にはぱんぱんに幼児が詰まっており、待機児童の問題がぜんぜん解決されないという風説を聞いたことがある。
過日。そんな共働き夫婦たちの派閥に、家事育児を分担するルールを設ける一派があるようだ、と小耳にはさんだ。
はさんだけれども急にかわいそうになったので野に帰してやった。煌く燐をはらはらと舞い上げて空に消えた。なんの話しだ。
話しによれば、炊事は妻、風呂洗浄は夫、子どものセントリーは妻、ゴミだしは夫、ETC、エレクトロニック・トール・コレクション・システムなんつって。そんなような区分けである。
各家庭のことだから口をはさむことではないけれども、私は個人的にこれはやめたほうが良いと思っている。
その理由を以下に述べていきたい。
まず第一に共働きというのはふたりとも疲弊している。
専業主婦だって疲れてんだよ!という声が聞こえてきそうだけれど、ちょっと無視します。とにかく共働きはふたりとも同じくらい疲れている。
それは社会での労働時間が長いほうが疲れている、ということはない。
なぜならば労働時間が短いほうが家事の役割分担が増加し、けっきょく家庭での労働時間が増加するからである。ここに子どもがいると、社会での労働時間が短いほうが重労働という結句になる。子育てはめちゃたいへんだ。
そこで「炊事は妻」などといったルールに拘泥されていると、元気いっぱいなのに動かない夫、憔悴しているのに飯を炊かなくてはいけない妻という対立ができてしまう。
「いや、そこは夫がんばれよ」という風が吹くかもしれないが、ルールを決めている時点で夫が飯を炊くと「ルールを越えた恩義」みたいなものが発生する。
「ルール上では君が調理をするはずなのに、本日は乃公がその番をした。だから乃公がすべき風呂洗浄などは君がするべきだ」となったりする。ならなくても心にちょっとした蟠りなどができてしまうはずである。
私はこのような世界はとても悲しいと思う。
見ず知らずの他人が恋に落ち、婚姻関係を結んで、病めるときも、健やかなるときも、1パック5枚入りのタン塩を食べる時も、ともに生きていく契りを交わしたのに、ルールひとつで暗澹たる胸中になってしまう。
だから私は思う。
大事なのは家事の分担ではなく把握である。
お互いに家事のタスクを把握しておくと、お互いがお互いを思いやり、家事を自然と分担することができる。
「今妻は川に洗濯をしに行っている。その間私はなにをするべきか。本日残っているタスクは、オムツの名前書きと芋の皮剥き、雑草の撲滅運動、回覧板の押し付けだ。子守をしながらできることは…」なんて訥々と言いながら仕事を探し、家庭を効率よく運営することができるようになる、と思っている。
また人間というのはどうしたってバイオリズムというものに支配されている。
だからどうしようもなく無精なとき、死にたくなるときだってある。
そんなときはお互いのパートナーに任せればよいと思う。夫婦なんだから。と思う。
もしお互いふたりとも沈鬱なときは無理に家事なんてやる必要ない。飯は乾燥麺を湯で戻す。風呂は雨ですます。掃除なんかしなくたって死なない。そんな感じでいけばよいと思う。
そんな拙宅には家事育児に関するルールがない。
だけどもうまくまわっている、と勝手に思っている。
昨晩は妻が疲れきっていたので妻は早めに床に着かせ、私が洗濯、食器洗浄、風呂洗浄、弁当制作、保育園支度をした。ちなみにその前の日は妻がほとんどやってくれていた。
我が家はルールに束縛されることなく臨機応変に柔軟に家庭の運営をしている。それはルールがないからうまくいっているのかもしれない、と思っている。
そんなことをルール右翼の家庭に言いたかった。けれどもそれは老婆心というものなので辞めた。各家庭によって、その環境によって家庭の運営方式はちがうと思うけれども、柔軟な対応ができることがいちばんだな、と思う。
そんなことを今朝方考えながら電車に立ち乗りしていた。
背負いもの鞄から冷たい感覚が湧いてきた。
水筒の内液が漏洩していたのである。
どうやらゴムパッキンがうまく合致していなかったようだ。
今朝は妻が水筒を拵えてくれた。ちなみに液体の漏洩はこれで通算3回目である。
なので私は、水筒は妻ではなく自分で用意するというルールを設けようと思う。