「いい鍋にしよう」
おれと妻の心はちょうどよいぐあいに吻合していた。なにが? むろん、すき焼きにたいする愛情が、である。
ふるさと納税という脱税クラスの所業において、上質な肉を入手したおれたちは、その牛の死肉をもってしてすき焼きをすることにしたのだ。結句から書く。まさに佳肴とはこのことであって、超絶弩級のうまさだった。
鍋とは育てるものである。はぐくむべき愛が肝要だ。子育てと似ている。煮ているのは鍋。ふふふ。つまり、家族で鍋を作り上げていくのである。だから「いい鍋にしよう」というスローガンはとっても大事なのである。
バイザウェイ。果たして、すき焼きは「鍋」なのか? という疑問がついてまわる。なぜならすき焼きはそのネーミングにおいて「焼き」という表意文字を含有しているからだ。鍋とは焼くものでなく「煮る」ものではないか。
だからやっぱすき焼きは鍋じゃないよなー。ってかなにより、すき焼きの指南書には「まず牛肉を焼く」ことからはじめよ、と記載されている。しかし、おれたちはそうしなかった。なぜか。
肉は焼くとかたくなる。油が溶解してしまい、すき焼きのエキスにはなるのだが、肉自体は矮小化する。吝嗇なおれたちは「いい鍋にする」という頑迷に扈従したがため、すき焼きのノウハウを因習打破したのだった。ロックですね。
そもそも拙宅には「すき焼き鍋」というものがない。両手鍋でおこなった。ってゆうか「すき焼き鍋」ってすごい矛盾した道具ではないですか? 鍋なのに「焼き」がメインなのっておかしくないですか? けっきょく割下で煮沸させることになるんですけど、じゃあすき焼きってけっきょく「すき煮」じゃないんですか? あーわかった。おれはわかっちゃった。これは「煮」というワードから連想される煮物、その庶民クラスの貧困的、昭和的なエッセンスがそこには凝縮されている。だから「ハレ」の祭り感、特別なグルーヴ感を醸成させるために昔の人は「焼き」をつかったんですね。焼き肉だといいかんじですが、煮肉だと、ほら、なんかちょっとまずそうでしょ? ね? 煮肉。ほらね? ぱさぽそしてそう。でしょ? 焼き鳥。うん、いいかんじ。煮鳥、ニトリ? ほらやっぱ庶民的!!
両手鍋使用。すき焼き肉を焼かずにしゃぶしゃぶ風にちょっと煮て食う。それはパガニーニふう、ロバートジョンソンふうに言えば「悪魔との取引」だったのだ。もちろんそれは、鍋の神の怒りにふれてしまう結果になった。
翌日おれはすさまじい腹痛に見舞われた。たぶん、あまりに上質な肉であったため、貧に身を清めたおれの臓腑は拒絶反応を惹起せしめたのだとおもう。烈しい稲光と天変地異がおれのおなかでわっしょいわっしょい。
神の鉄槌ってくだるものですね。くだったのは腹ですが。好きで貧乏してるわけじゃないやい。鍋焼きうどんの正体とは? 今年も肉に納税する。