まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

比古清十郎のポジション

 ぽつん。空席が目にはいる。五月いっぱいで退職したひとがいる。裏返ったキーボードの寂寥は、あたかもなにかを忘れようとしているひとたち、その日常に流されていく業務のなかで、ひときわ異彩を放っていた。

 

「好きなことで生きる」らしい。ブログでもはじめたんか? おれよりも若輩なのだが、豪儀なことだとおもう。ただ、果たしてなにかを出来るようなにんげんであったか、と思案投げ首してみると、よくわからない。あまり目立たないにんげんであった。

 

 べつだん批判などはしない。おれも好きなことで生きれたらいいな、とおもう。だからちっと羨望を抱いたりしている。でもぶっちゃけマジな気持ちは「どうせ失敗するだろ」とおもっている。けれども、そうおもっているとけっこう成功したりするので、おもわないようにしている。ってことはやっぱ失敗を望んでいる。なんて狭隘なの。

 

 ブログやツイッターをやっていると、よく「仕事が厭なら辞めてしまえばいい」とか、「会社勤めがえらいわけじゃない」とかいうのを目撃してしまう。おれは個人的に、ふつうに会社に勤め、ふつうに生きることって難しいとおもう。難しいことを成し遂げるのはすごいとおもう。だからそんな困難のなか、厭でもがんばっている人間はえらいとおもう。

 

 けれども、自分の才能を活かし、社会に貢献して、お給銀をいただけるのであれば、それが人生のベストであるとおもう。だれかが言っていたが、「自分のしたいことと、世の中の義務が合致すると、それは生きがいになる」みたいなことを。

 

 好きなことで才能を爆発させ生きているひとをみると、いいなぁ、よりも、おのれの小市民感、斗筲の人間感に打ちひしがれる。おれはなぜこんなことをしているのだ、と焦燥感でからだが煮えるようになる。

 

 そんなとき、おれは比古清十郎をおもいだす。比古清十郎とは、「るろうに剣心」という漫画本にでてくる登場人物で、主人公 緋村剣心の師匠というたちばをもっている。

 

 この比古清十郎。じつは作中最強である(※個人の見解です)。「剣心が骨折りしている志々雄真なんてのも、おれにかかればいっぱつ」的な発言もしていた。不遜なおとこである。

 

 そんな最強の登場人物でありながら、山奥で陶芸家をしている。つまり韜晦しているのである。そして俗世間を俯瞰し、「ま、おれなら余裕だけどね」なんて精神的余裕をもちながら、物質社会をばかにしているのである。

 

 これはいい、とおれはおもう。この比古清十郎のポジショニングは現代社会にもつかえるな、なんておもう。つまり、「おれには超才能があるけれど、あえて見せびらかしていないだけ」というポジションをとることにより、好きなことで生きているひとたちに対し、マウンティングをとり、精神の寧日を保持する、ということである。

 

 すなわち、「好きなことで生きようとおもえば、すぐにでも実践できるけど、あえてそうしないのは、やっぱより困難な道で生きていたいからなんだよねぇ。だって、そのほうがたのしいじゃん? 高ければ高い壁のほうがのぼったとききもちいいじゃん?」みたいな気持ちで好きなことチームにたいし、「あー、なかなかいい線いってる」なんて上からの目線を持とうとするのである。

 

 なぜならそうしないとやってられんから。社会という檻のなかで自由になるには空想を敷衍させるしかないのである。かなしい性だぜ。でもそれって比古清十郎には程遠いんじゃない? なんて自問自答。冷凍都市の暮らし、あいつ姿くらまし。