いつからか朝が来るのがこわくなっていった。
「夜明け」という単語は隠喩で、希望、暗黒期の終わり、絶望からの経過的救済や、なにかが始まる予感、として使用されることが多い。
いわゆる「明けない夜はないぜ」ってポジティブなフレーズなんだろうけど、ここ現実世界においては、この夜明けほどこわいものはない。
はてなぜか?と思案を巡らせてみた。
以下は思慮の結果であるが、つまり、日常な生命活動および社会的生存を同時に処理するためには、社会が作り上げた貨幣経済に乗っ取らねばならず、その主たる金銭を合理的に取得するためには、胴元に所属し奉公を勤めなければならないのだが、それは基本的に朝から晩、つまり夜明け後のお天道様が上っている時間に従事するため、業務より解放された夜のこの家族とのふれあい、団欒、宴、自己放埓なこの刹那を終了させねばならず、入眠における人生のロスタイムを含めれば、自由を謳歌できるこの夜の瞬間をもっともっと楽しんでいたい!遊んでいたい!いや、遊ばなくてもいいんだ、とにかく私は仕事に行きたくない!ということであって、
端的に言えば「働きたくないなぁ」ってことですね。
私にとって「夜明け」というのは、直喩で、絶望であり、暗黒タイムの始まりであり、希望の終了、仕事がはじまる予感でしかないのです。
明日なんてこなければいいのに!!
なんて思った風邪っぴきの昨日の帰路。
というのもイースタンユースの「夜明けの歌」というのを聴いていたから。
この曲は「感受性応答セヨ」というアルバムに入っている。
- アーティスト: eastern youth,吉野寿
- 出版社/メーカー: トイズファクトリー
- 発売日: 2001/08/08
- メディア: CD
- 購入: 4人 クリック: 44回
- この商品を含むブログ (107件) を見る
「感受性応答セヨ」。
なかなかすごいタイトルだなぁ、なんて思う。
歳をとってこの感覚がすごく身にしみる。
感受性ってもっと身近なものだった。
「だった。」
過去形の理由は、いまはもう、どこか遠くに行ってしまったからだ。
昔は仲がよかった感受性。
公園で遊んだってそこはバトルフィールドになるし、いい感じの木の棒を拾えば、それは伝説の剣となりうる。見えない銃弾を避けられたのも、魔法がつかえたのも感受性のおかげだった。
中学高校も一緒だった。高校で彼女が出来たときには「俺と彼女、どっちといて楽しいんだよ!」なんて言って、なんだか気まずい雰囲気にもなったっけ。
大学で疎遠になった。私が上京したからだ。
「元気でな」なんてそんな一言を言うために、それだけのために140円の入場券を買って新幹線のホームまで、わざわざ見送りに来てくれたっけな。
「俺はこの街に残るよ。」
お互いの選んだ道に間違いも、正解もないのかもしれない。ただあるのは「別れ」
バイバイ感受性。
でも一生のお別れじゃないよな?
だから、またな、感受性。
そして、いつの間にか大人になった。
あのころいつも傍にいて、一緒にバカやってた感受性はもう、近くにいない。
ヤツの存在を確認できるのはこの通信機器の先だけ。
「感受性ッ!感受性ッ!応答セヨッ!応答セヨッ!…クソッ…繋がらない…いったいどうしたって言うんだ…」
「ザーッ………」
ノイズが交じるトランシーバーの向こう側。
息も絶え絶えな、血まみれの感受性。
なにかが始まりそうな予感です。
もう朝だから。