拝啓、鬼さん。
効いてますか?
豆がない。
気がついたときには遅かった。節分仕様の炒り大豆が我が家には欠品していた。
いますぐにコンビニにでも行き、購入しに参ろうか、と妻に提案したところ、いえ、それは夜道ですもの、危険だわ。と、この出来損ないの甲斐性なしのロクデナシの身をも案じてくれたので、ひとまず代替案を考慮しよう、という取り決めとなった。
節分の豆まき。これを怠るわけには行かない。
なぜか?それは我が家が、行き場を失った鬼たちの拠り所、オアシスとなってしまうからだ。
鬼は各家庭より、締め出される。
あんなに毎日仲良く暮らしていたのに、この時期になると、まさに鬼神ごとく豆を投げつけられる鬼たち。心苦しくも豆を投げつけなければならない家庭もいるので、自ずと家を出て行く鬼もいるという。
鬼「ワシ、ちょっとでかけてくるわ」
母「あぁ…そう…気をつけるのよ。今日は節分だからね。」
鬼「だいじょうぶ。おっかさんたちには迷惑かけねぇよ」
母「じゃあ…これもってお行き…」
渡された小包に、おおきなおにぎりが2つとたくあんが2枚。
おっかさん、鬼におにぎりなんて無粋だぜ、なんて思いながらもその優しさを抱きしめつつ鬼は戦場に行く。その背中はいつもより大きく見えた。
外に出れば容赦なく浴びせられる豆の嵐。マメマシンガン。とくにこどもは容赦しない。
誰が本当の鬼なのか、現代人はよく考えたほうが良い。
大豆の代替案。
まずあがったのはピーナツである。
奇しくも我が家にはカレー味の柿ピーが常備されているので、そのピーナツを収集するといった寸法である。しかし却下。
なぜならば、やはり柿ピーはピーナツという安息がなければいけない。なにがいけないのかはわからないが、概念として必要である、という結論に至った。男の乳首みたいなもん。
次にあがったのはどんぐりである。2歳児をもつ家庭ならばほぼ確実にウチにある。
しかしこれも即座に却下。だってどんぐりは宝物だもん。しかも鬼に効果があるのかわからない。てかどんぐりは豆なのか?という疑問も湧き出た。
かような理由でどんぐりは今日もいつものポケットに入っている。彼のだいじな宝物だ。
炒り大豆代替案第3の刺客はミックスナッツである。
これもありえない。という話になった。
まずオシャレすぎる。どこのセレブなのか。節分にミックスナッツを投擲する家族。確実に叶姉妹。ありえない。という話しになりました。却下です。リスさんも来ちゃいます。
家庭内の豆を考慮しつくしたとき、妻が放ったこの言葉。
「…成分」
メカラウロコであった。
これはどういうことか?というと、つまり、大豆の成分を含むものであれば、豆の替わりになるのでは?ということであった。カタチに捉われない発想。天才だな、着眼点が違うな、と思った、と同時に、私はこの人と結婚できて本当に幸せものだな、とも思った。
ということで、大豆100%の豆乳が候補にあがったが、残念ながら豆乳は我が家にない。ではなにがあるのか?
きなこ、があった。
きなこはご存知であろうが、炒り大豆を粉末状にしたものである。
これなら誰も文句は言うまい。計画は進んでいった。
しかし懸念が脳裏をよぎった。
きなこを撒くことによる弊害。2つあった。
まず、清掃の問題である。
昨今の豆まき事情を鑑みると、やはり小規模で行うことが通例となっている。それは豆まき後の清掃を考慮したものである。
清掃を考慮すると、やはりきなこ、というのは豆まきに不向きである。
粉末状のそれは空気中に散布され、どこにいったのかもわからぬまま消え去ってしまう。
しかしそれは本当に消えたわけでなく、確実に、そこにある。なんかジョジョみたいなセリフですね。
ことあるごとに「なんかサラサラする」という感覚を抱く、玄関にて。
ふと指先で床面をなぞれば黄色い粉。それはやっぱりきなこである。
2つ目の懸念はこどもへの影響である。
息子は2歳であり、現在世界のさまざまな事象を吸収真っ最中。
そんな多感な時期に豆まきではなく、きなこ散布。
これは今後の彼の人生を大きく狂わすのでは?という懸念である。
節分は粉を撒く行事として彼の脳内メモリーにインプットされてしまうのは我々親の炒り大豆購入の忘却がゆえんであり、親のエゴである。
この2点の解決策として見出した答えがある。
正直に言おう。タイトルは釣りだ。
本当は撒いていない。盛った。
つまり盛ったのは、タイトルであり、きなこである。
どういうことか、というと、これは日本古来より破邪の儀式とされる盛り塩と呼ばれる慣例を模した。
これならば清掃も容易であり、神事に精通する方法なので節分という節目の儀式として成り立つ。完璧である。
といことで、もしこの日記を見ていたら教えて欲しい。
鬼さん、きなこ、効いてますか?
敬具