まだロックが好き

まだロックが好き

おめおめと生きている日記

カレーに学ぶおもちゃの在り方

 

インド人は日本のカレーをどう思っているのだろうか。インド人のカレー屋さんで販売されるあのカレーと、日本の食卓に並ぶカレーは、外見、味、匂い、雰囲気において別の料理でないのか。

ギリギリ「米にかけて食う」というポイントだけでインドから「カレー」の商号を貸していただいているのか?ちがうのか?ナーンはどこに行ったのか?ラッシーは飲むヨーグルトではないのか?

 

しかし、カレーの概念がすでに確固たるものとなっているニッポン。そしてその現代社会。インド人としても「それはそれでありじゃない?スパイス使ってるし」みたいな寛容な態度をとって頂いているのか?国際紛争は多様性の受け入れで成り立つのか?さすがはガンジーの国ということなのか?

 

息子におもちゃを買い与えている。これまた「買い与えている」というのも親としてのナチュラルな上から目線が入ってくるフレーズだな、親だからエライのか?なんて思いつつも、まぁ、アレは買い与えている。俺の稼いだカネだ。

 

jam

 

息子も2歳をすぎればオスとしての闘争本能が活発になる。破壊衝動。圧倒的な力への崇拝。暴力の美學。つまり、すごく乱暴なあつかいをする。おもちゃとか。

 

「こわれちゃうでしょ。だいじにつかいなさい。」というのは親の言い分であって、でもしかし、コレの所有権は息子にあり、さらにその所有者として息子はおもちゃをボッコボコにして使いたいわけである。

 

「こわれてもいいもん。」というのが息子の心情であるだろうが、しかし壊れたら壊れたでまた新しいものを買わなきゃいけないのは親である。なぜなら息子は無職。ふだんは保育園とかでぷらぷらしているロクデナシだ。つまり所得が無いのである。

 

 

これが裁判になったらどうなるのだろうか?所有している息子に分があるのではないか?親だからといって息子の所有物を監視管理する権利はあるのだろうか?

 

こういうときは息子の立場になって考えてみる。発想とはさまざまな観点から生まれるのだ。

 

私はさいきん家を買った。カスタマイズしたいなぁ、とか思っている。壁掛けテレビとかいいじゃん。お庭でガーデニングも憧れる。

そこでしゃしゃり出てくるのが、私の母である。

「アンタそんなのやめとき!」が口癖の母である。 私のやることにいちいち口を出してくるのが趣味。しかもすべて否定的にである。故に見事に私はひねくれた。

 

私としては私に所有権があるのだから私の好きにさせてほしいわけだ。母からは経済的な援助は一切ない。そこであーだこうだ、とおのれの経験からか知らんが壁に穴を開け空けるべきではない、とか、ガーデニングは虫がくるのでやめたほうがいい、とか言われたくないわけである。

 

私は母のようになりたくないな、と思っている、と、さりげないコンプレックスを吐露してしまったが。反面教師としては優秀な逸材である。

 

それと同じことを私は息子に言っているのでは?私は私の人生観を息子に押し付けてしまっている!ヤバい!このままだと息子が私のようなひねくれた人種になってしまう!あ、ヤバい!マジで!!

 

しかし問題はこのおもちゃは私が購入しているものである、ということであるが、しかし譲渡は済んでいる。書面は交わしていないが法律上ではおそらく息子に所有権がある。

こういう場合、ただしいおもちゃの在り方とはどうあるべきなのだろうか?親の言い分を優先すべきなのか、それとも息子の所有感を優先すべきなのか?

 

とりあえず、優しく寛容な人間になってほしい。インド人のような。だからおもちゃは優しく使うべき。わかった?