まだロックが好き

まだロックが好き

おめおめと生きている日記

こどもの諍いごとは、そばでだまってみているのが正解なのかもしれん

 

日曜日のことである。巨大なすべり台のある公園に赴いた。巨大なすべり台というのは、接臀面が数多のプラスチックのローラーになっていてガラゴロと回転を利用して滑走するタイプ、と形容すると認識しやすいと思う。…しやすいか?

 

すべり台なのでまず登上する。高さと楽しさが比例するのがすべり台。突起した鉄の棒を踏み台にしたり、垂下した荒縄をたぐったり、鉄を溶接してかごの目状になった隋道をくぐりぬけたりする。そうして頂上にたどり着いたモノのみがその滑走を享楽できるのである。

 

そのすべり台は公園の人気コンテンツで、やはりならぶんですね。順番待ち。待ち、と言っても10分も待たないのですが。

わたしと血胤関係のある男性は2歳5ヶ月なので、私はすべり台に同伴させていただいた。しかし、もちろんある程度の人生経験を積んだ方々は単独で乗り込んでくる。3歳か、4歳だともう余裕綽々なんですね。

 

そうなると自我の暴走をいさめる人間、通称保護者の監視をかいくぐり、傍若無人のかぎりを尽くしはじめる。それが若さなのですか。このすべり台順番待ちのパターンで言えば「割り込み」というヤツが蔓延する。

彼はおそらく就学前。4歳か5歳くらいかな、と目測なのですが。その人物が私たちの序列を横断したのですね。そしてそのまま居座ってしまったのです。

 

わが家の2歳男性。比較的そういった社会の理不尽に耐性がないので、怒り心頭。そばにあった酒瓶を手中に収め、ぱしゃんと破砕。ぬらりと光る切っ先を痴れ者の眼前にかざし、「貴殿のかかる行動は、社会のマナーを心得ての狼藉か」などとわめきちらし、相手方、これ狼狽のみであって思考停止。したたる蒸留酒。匂いたつ熟成した樽の薫り。保護者である私はただただその一部始終を傍観するのみであった。

 

かような事態に保護者としては、なにかしらの裁定をくだし、審判。仲裁をおこなうべきなのだろうけれども、愚拙、じつはこのとき猛烈な二日酔いでございまして、すでに佇まいは12ラウンド目の拳闘士のごとき。告訴のゆくえもわからぬままにただただ見ているだけになってしまいましたが、まぁそれで結果よかったです。

 

なぜならば、当事者同士で和解が成立していたのです。被告である彼は無言ではございましたが、とぼとぼと後退。そのさらに後列から被告の保護観察者が「すみません、すみません」などとひとりごちながら、被告の手を引き最後尾へと舞い戻るという顛末。

 

指導鞭撻というのは、わが子、つまり血のつながりのある人間であればしやすいのだけれど、他人、今回の事例で言えば割り込み人に対して、なかなか注意というのはじつはしにくい。かつて私はそのような事態におちいったさい、後列につづく人がいない場合であるが、そんなときは序列を無視して、割り込みを寛容してしまったときがある。「みんなで仲良くしようねー」なんつって。なんとも浅ましくも傲慢な教育だと、自分が恥ずかしい。

 

そんなこんなですでに2歳になった我が家の保育園児は、施設にて、もまれているのであろう。社会的なマナーを知っている。そしてそれを遵守する大切さも。ルールを守るやつだけがルールに守られる。いや、もしくは父のふがいなさに気付いているのか。自分で問題を解決する能力というのがついてきたのか。

 

これは私のふがいなさ、育児放棄なのかもしれない。が、こどものけんかにいちいち大人が口をだすのもどうかと思っている。もちろん年齢にもよるが。今回はけんかではないし、わたしの息子が優秀だったのでことなきを得たが、こども同士で問題を解決できるならばそれこそが社会勉強ではないのかな、なんて思った。という自らへの釈明。

 

なにもできねぇ大人っている。俺みたいな。そんな甲斐性ナシにならないようにできるだけ自分のことは自分でやらせようかな。親ってのはほんとうに困ったときだけ助けてやりゃあいいんじゃねぇかな。まぁまだ2歳だからね。わからんけど。

 

日曜日、埼玉の大地は強風に煽られ、砂塵舞い上がる中の外苑遊戯は毛髪をゴワゴワにさせた。あ、楽しかったです。

f:id:yuasayo1013:20170320121426j:image