おめでとう、なんて言うほど私の性格は下卑ていない。とりあえずこれから調和をよろしくしたい、と願うばかりである。
というのも、弊社にも新入社員なる若輩が入社したからである。
現在研修まっ最中のご様子である。そこで私もふと思い出したことがあり記載に走っている。思い出したことというのは他でもない、私が入社したときに当時の人事部長から言明された、社会人として3つの「しないでほしいこと」というものである。
ひとつは、ガムをくちゃくちゃ咀嚼しながら公共の場を歩くな、というものである。なんとなく含意は察する。それでふたつめは忘れたので、みっつめを記載したいが、それが「公私ともにやばいということばを使うな」というものであった。
たしかに今、私たちは「やばい」なしでは会話がままならない。やばい依存症である。これってやばくないですか?海藤に「禁句(タブー)」で禁止されたらいっぱつアウトである。っていまの新入社員は幽白わかるのかしら。
しかし、なぜこんなにも「やばい」を多用するのか、といえば便利だからである。
本来「やばい」ということばは、あぶない様や、悪い状態をさすことばらしいが、そりゃあことばの意味は変わる。平成二十九年にそんなこと言っても鼻で笑われちゃうだけである。「あの崖道はやばい」と言っても「危険な崖道」ではなく「なんかたぶんワクワクするような出来事が待っているメルヘン崖道」として捉えられてしまう可能性がある。そんなもの興味の対象にしかならない。
今時分、「やばい」の本意が様相を変えている。現代に横溢するヤバイという言葉の根幹をなす意味は、いわゆる感情の動転となってしまったのである。
昨今の若者が美味いものを食ったとき、くちびるから漏れることばは主立って「やばい」である。
なぜ「やばい」と言うのか。心のうねりが甚だしいからである。おさえられない感動の果てに出ることばが「やばい」である。しかしこれは正しいと思う。だって「おいしい」とさえ形容できない思考状態は危険だからである。これはまさにやばい。
壮絶な風景などをみたとき、これもおもに感想は「やばい」である。上記美味いものと同等の理由により省略するが、心の琴線に触れたその眼前の形容としては、みごとに象徴的に捉えられているのではなかろうか。
しかし、いわんとしたいのは、上記二例の「やばい」の指し示す主語は「私の心情」である。ということである。
やばいにおける日本語の乱れというのは、やはり主語の省略が問題であるとおもんぱかっている。
つまり「やばい」を現代の意味で使うとするならば、美味いものを食ったとき「このししゃも、やばい」は「このししゃもを食った私の心情がやばい」となるわけであって、私の心情が行間となってしまうことがややこしさを発生させている。
やばいという言葉を来歴の意味で捉えるならば「このししゃも、やばい」の主語はししゃもとなり、このししゃもは危険なししゃもである。人食いししゃもである。それはピラニアである。それを食うのはいろいろやばいんではないだろうか。
しかしたまに、若者も正しく「やばい」を使っていることも考慮したい。よく耳にするのが「アイツやばくない?」である。反語をつかっているのもポイントである。
どんなヤツかはわからないが、たぶん年中ロングコートであり、その下は一糸まとわぬ裸体で、毛穴からぬめぬめとした分泌物を排出し、しゃべることばは人外のものである。唯一文明を想起させるそのロングコートの内側にもやばさがあって、そこには洋の東西を問わぬあらゆる刃物が垂下している、といった人間のことであろう。そいつはたしかにやばい。
しかしこの場合も、発言した本人が正しく「やばい」という単語を使っているかは謎なのである。この場合であっても「そいつを見たとき私の心は動揺する。その私の状態がヤバイ」ので「あいつがヤバイ」と言っている可能性もあるのである。
「やばい」の汎用性は、主語が常に自分にあることにある。「なにかの事象をうけてからの自己の心の動転」をヤバイと形容するのであるからである。なので「○○がヤバイ」の○○には、食事風景人物テレビ読書音楽ネット動物神仏形状象徴天文科学、などなど。どんな事象でも浸入してくる可能性があるのである。
そんなこんなで今時分「やばい」の意味は「感情の起伏が甚大な様」を指し示していることになる。よって「やばい」を禁止されたのであれば、激しい意味を持つことばに置換すれば良いのである。
そこで私が提唱したいのが「激烈」である。
代替案としてほかに「猛烈」などが出てきたが、どうも「モーレツ」となってしまい昭和感がにおってしまう。なので激烈としたい。
激烈とは
[名・形動]きわめてはげしいこと。また、そのさま。
である。
きわめてはげしい。これを若者ことばになおすなら、やばいほどやばい、である。
こんなに現代語として「やばい」に代替するやばい言葉ありますか?
そしてその心の動向を、「やばい」よりもしっかりと「きわめて激しい」と表しているいるのもポイントである。
「このししゃも、激烈」となれば、行間を読み詳細に意味を表するならば「このししゃもを食った私の心情は極めて激しい状態である」と相成り、感動つまり、感情が動く様、そしてそれが激しい様が読み取れるのではないだろうか。
また「ゲキレツ」というパンチのある語感も、その程度が大仰でとても良い。
そんな感じで「やばい」の代わりに「激烈」を使うのやばくないですか?