まだロックが好き

まだロックが好き

おめおめと生きている日記

ひとりで飯は食えるけど、ひとりだと写真が撮れない自分に消沈する

 

こうして日記なんてものを綴っていると、書きやすいことというのは「食ったもの」であったりする。

どこのなにがうまかったとか、ここいらにはこういったご当地グルメがある、とかそれらはたいへん公益性が高い。よって読んでくださる方にも有益な情報として届き、今度食べてみよっかなーなんて思われたりする。それが個人ブログの醍醐味だったりする。

 

かくいう私もおいしいものを食べるのが大好き。また飯ブログとか大好き。見ていて楽しいし、あ、おいしそー!今度これ食べてみよー!ってな具合になったりする。

 

だから私もグルメブログ的なものにチャレンジしてみよっかなーなんて思う。私は都心に勤めているので比較的ご飯屋さんというのは周囲にたくさんある。よし!今日はここで人気のラーメンを食うぞ!写真をとって感想を書いてブログにアップだ!なんて思うのだけれど、まず写真が撮れない。

 

なぜだろうとおもんぱかってみる。おそらく羞恥心のブレーキがかかっている。

この羞恥心の原因はおそらく、スマホのカメラ機能による「カシャ」っと鳴る電子音が気になるってことなんだけど、なんでこれが気になるのかって言うと、たぶん周りの目や耳が気になってしまうってことなんだと思う。

ではなんで周りの他人の目耳が気になってしまうのかというと、これには精緻な心の機微がある。

訳をいえば、私は誰かが飯の写真を撮っていたりすると「あ、この人、ブログとかやってんのかな」なんて思ってしまい気味であり、それはつまり私個人の頭の中で「飯の写真を撮るニアリーイコールブログにアップする」という公式が成り立っているということである。

よって私が飯の写真を撮るためにスマホを「カシャリ」と鳴らすことは、私がブログなどをやっていると周囲の人々に案じられるのではなかろうか、と危惧することから気になってしまうんだと思う。

 

またスマホで撮るというお気楽なスタンスも恥じている。

これがニコンのカメラで、俄然寄れるレンズをつけて撮影していた場合、マジなそういう人だと周囲に敬服される。しかし私が操るのはアイフォン7であり非常にインスタントである。昨今ではインスタグラムなどが流行しているので飯の写真を撮ることになんら不可思議を感じる人は少数であると察せられるが、まずもって芋な30歳のおっさんがインスタグラムをやっていると思われることに抵抗があり、それは周囲の方々からの侮蔑の念を向けられているように感じてしまう。

 

これらはその最中の心の動作であるが、また撮ったあとでも危惧すべきことがある。

写真を撮っている姿を見られる。これは尽力して耐えるとしよう。しかしそのあと私が食った飯の写真を撮りブログにアップする。

そしたらそのブログに写っている注文した飯、着座した席、その席から取れる写真の角度や風景、テーブルの色、その他もろもろを計算され「あのとき、あそこでパシャパシャ写真とってた野郎のブログじゃん」となり、あの日、あの時、あの場所で相店した誰かに発見される可能性がある。これは非常にまずい。なぜなら私はある程度一定の店にしか行かず、そこで身バレすれば私は恥ずかしくてもうその店にいけない。行けないとなると日ごろの飯はコンビニ一辺倒となってしまう。

 

ではこれが本題であるがなんでブログをやっていることが恥ずかしいと感じるのか。

というと、たぶんこの己の自己顕示欲を現実世界の住人に晒すことに引け目を感じている。だから私は顔写真などを公開してないし実名でやっていない。だから「あいつブログなんてやってんのかよ。顔の皮が厚いやっこさんだぜ。阿呆みたいな顔してるくせに。」と思われることが我が自尊心の崩壊にリンクしているのではないかと思う。これは今後掘り下げて考えたい。

 

またブログの内容が内容である。自分で言うのは読んでくれている方に失礼なのだが、まぁくだらないですよね、私の日記って。なんかもっと、こう「静岡人が選ぶおすすめの鉄アレイ10選」とか「犬と猫をみわけるたったひとつの方法」とか「知らなきゃ損!?ストレスに打ち勝つための炊飯器の使い方」みたいな知識と教養を兼ね備えたブログならよかったんですけど、どうしてこうなってしまったんでしょう。しかしもうあとには引き返せない感がありますね。だから今後ブログの方針を改めるってのは難しいですね。

 

では、私が心置きなく飯ブログを開催するにはどうすればいいのか。

 

無音のカメラアプリがあんじゃん。とデジタル部門に明るい方はおっしゃるかもしれない。しかしちょっと待ってほしい。私の趣味はブログであり、つまり書くのも好きだが読むのも好きなわけで、面白いブログなどを読んでいるときは破顔しているのである。

とくに電車移動中などはブログを読むことが多く、電車内でニヤニヤブログを読んでいたときの場合を加味してほしい。つまり、もしそのタイミングで目の前に女子高生などがいらっしゃった場合、なんぞ気色の悪いおっさんと思われる。思われるだけならオッケーであるが、勘違いした女子高生は「如何なるものを撮影致したか!」などとわめき散らし私のスマホを奪還。「無音のカメラアプリじゃねーか!私のパンティ写していたんだろ!外道!」的な事を虚言されたらば、おしまいである。

このおしまい、というのはつまり痴漢と誤解されるということであって、なぜ痴漢と誤解されることがおしまいなのかというと、痴漢が冤罪とされる率はかなり低く、糾弾されたが最後、男という性に生まれたことを呪うしかないのであって、捕縛後投獄され、くさい飯を食らうことになる。

くさい飯を食らうだけならまだしも時代が時代である。つまり不況であることから税金の無駄だと言われる。つまりくさい飯と呼ばれる獄中飯であってもそれはみなさんが納めた税金から成り立っているわけで、飯だけではなく設備維持費というもので税金は浪費されるわけであって、不況の現状において痴漢なんてした人間に使える税金は無く、結果、極刑となりこの身は滅びる。

だからなんとしてでも痴漢の濡れ衣を着るわけにはいかず、それはつまり現代の痴漢回避解釈としては、勘違いする女よりも勘違いされる男のほうが悪いのであるからして、だから無闇に無音カメラアプリなんてダウンロードできないのである。

 

それでは他の解決策を模索したい。つまり誰かとともに飯を食いにいくことである。

誰かと一緒であれば会話や流れで「あーおいしそー」なんか言いながらパシャリと撮影が可能である。これはやはり誰かとともに飲食をすると心が強くなる、ということである。周囲が赤の他人のアウェイ状態であるが、となりに知人がいるだけで拠り所ができてホーム感を覚える。

さらには「ちょっと写真とっとこー」なんて言えるのは、その思い出を共有する、といった意味であって、ブログにアップすることを前提としませんよ、という言明を態度で周囲に示せる。なので基本的にだれかと飯を食いに行けばいいのだが、いま驚愕の事実を思い知ったわけであって私には友人が居ない。これが妻である場合、私はふだん飯を写真にとるタイプではないし、さらには妻はまだこのブログの存在をたぶん知らない。知らないだろうし知らせない。だから妻とは無理である。

 

しかも、今回のブログのテーマは「ひとり飯」である。冒頭陳述を致しかねたが、今回の日記ははてなブログのお題目に沿ってかいている。 

ではひとりで飯を食いながら無音カメラアプリを使用せず、飯の写真を撮る方法を思案せねばならない。それが思いつかずにこうして3000文字も日記を書いてしまいましたが、なにかいい方法ありませんかね。メンタルを強く持つとかいう精神論は抜きにして。

 

Netflix野武士のグルメお題「ひとり飯」

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