まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

パクチーブームの次にくるのは三つ葉ブーム

カルビーからパクチー風味のポテトチップスが発売されている。期間限定のようである。ここでひとつ苦言を呈したいことがある。

 

それはもともとこのパクチー風味のポテトチップスはカルディという南蛮渡来の食料品店で販売されていたことである。ここがややこしい。

 

なにがいいたいか、というと「カルビー」と「カルディ」の響きが似ているからややこしい、ということである。

 

ついこのあいだ、妻より「カルディからパクチー味のポテチ出るんだって」と言われた。私は思った。もともとあんじゃん、て。だから返答致した。「え、もともとあるよね?」と。そしたら妻は「ないよ!」と言った。

 

我々夫婦はもう13年ほどの付き合いになる。なので、ある程度の記憶の行き違いは仕方ないと思っている。だけどもパクチーチップスのことに関しては別だ。あんなにふたりではまったのに。あんなにカルディで「すみません、品切れなんです」といわれ続けては意気消沈したふたりの思い出である。

 

しかしいつものイオンの軒下のカルディの店先で見つけたパクチーチップスのジャケ。なんたる僥倖か。あんなに抱き合って喜んだのは過去にもない。やっと手にしたパクチーチップスの味はうれし涙の味がした。それを忘れたというのか。ひどい女だ。と思った。

 

そしたら妻は「でもカルディでもあるよね」と言った。さっきからそれを言っているのだろう。それともべつのカルディなのか。いや世の中にカルディがそうな何個もあってたまるか。と思いそして訝った。いや、もしかして妻はカルビーのことを言っているのではないか、と。

 

つまり妻が開口一番に言った「カルディ」は私の聞き間違いであり、あれは本当は「カルビー」であり、この段落の冒頭で妻が言っているカルディは本物のカルディということになる。だから私は返答した。「もしかしてそれってカルビーのこと?」

 

指示語というのもやっかいである。基本的には直前に出てきたものをさしてしまう。だから私が「それ」と言ってしまうと、前段落の妻の発言「でもカルディでもあるよね」のことを指してしまい、これはつまり私の示しているカルディとカルビーの認識が、そのときの妻の中にあるカルディとカルビーの認識とあべこべになってしまっている。ということである。

 

なんとか行き違いからくる苛立ちともどかしさを鞘に収めたが、とにかくカルディとカルビーは響きが似ていてややこしい。

 

そういった前置きなんですが、パクチーがずいぶんと肩を切って日本を歩いている。これは比喩であり、じっさいのパクチーは植物なので歩かない。とにかくデカイ顔をしているといいたい。これも比喩であり、じっさいはパクチーに顔はない。じゃあなんと形容すればいいのか。パクチーが流行っている、と言えばいいのである。

 

パクチスト。なんじゃそりゃと思う。私は思う。パクチーを好きな人はパクチーの沼に嵌っている。どういうことか、というと以下である。

 

パクチーというのは基本的に賛否が分かれる食い物である。嫌いな人は「カメムシがどうのこうの」といって厭悪する。とにかく匂いがダメらしい。しかしパクチーが食える人は「匂いがいいんじゃん。おいしいじゃん」と論を反する。ここが沼の一歩目であり、沈殿地である。

 

つまりパクチーが食える人は食えない人に対して「あれおいしいじゃん」と言った旨の発言をする。人間とは不可思議なもので自分の発言に洗脳されてしまうことがある。だから自己発言である「パクチーおいしい」にサブリミナルな効果が与えられ勝手に好きだと思い込んでしまう。

 

また嫌いな人がたくさん存在するぶん、パクチーを食える人間は「あ、パクチーを食える私はたぶんにパクチーが好きなんだろう」と思ってしまう。嫌いな人が嫌いなぶん、好きな人はどんどん好きになってしまう。沼である。すぶずぶである。もうその沼からは抜け出せないのだ。

 

そんな私はパクチストである。パクチー大好き。これは流行っているからとかではなく、マジでずっと好きであった。もともとエスニック料理がすきなんですね。だからパクチーを流行らせたのは私、といっても過言ではない。

 

しかしこの自慢的発言をすると「はいはい、どうせ流行ってるから好きなんでしょ」と言われる。いやいや、パクチーとスリッポンとミニマリストを流行らせたのは私である。この三つに関して私は元祖である。元祖でありオリジナルであり嚆矢である。しかしそれが証明できない。だからこそ今後はこの日記で証拠を残したいと思い記載にはしったのである。

 

今は平成二十九年の卯月である。断言しておこう。パクチーブームの次にくる香草は「みつば」である。あのかつ丼とか茶碗蒸しの上に載っているやつである。あれめっちゃうまい。

みつばは三つ葉なんて漢字が当てられている。まんまである。せり科の植物である。おもに茎と葉が食用とされさわやかな香りが特徴の香味野菜である。

引用:ミツバ - Wikipedia

 

私がなぜ三つ葉が流行ると思っているか。それは三つ葉とパクチーは類似点があるからである。こんだけパクチーがブームなのだから三つ葉も流行るでしょう。それも以下の点からパクチーよりも流行るのである。

 

それはまず香味の点である。パクチーは味というより匂いが強い。擬音で言えば「がつん」としている。しかしその鼻に抜けるにクセのあるまとわりつくようなねばった匂いが人々の心を打つ。人を選ぶがハマったが最後抜け出せない。まるでロックである。

 

しかし三つ葉はさわやかである。さわやかであるが匂いのパンチは強く、かなりフックが効いている。擬音でいえば「ぶわっ」としている。味は葉物であることから若干のえぐみはあるが、鼻腔に抜けるあの爽快感がその葉っぱのえぐみさえフローラルな味覚へと昇華するのである。つまりパクチーよりも三つ葉のほうがよりキャッチーでポップなのである。

 

よりポップでキャッチーな三つ葉は万人に受ける。そしてパクチーを受け入れられなかったパクチー難民が三つ葉に流れるのである。しかも、である。パクチーを好きな香味野菜ラバーズはもちろん三つ葉も受け入れてしまうのである。つまり三つ葉は万人に愛される。ゆえに流行る。

 

ほんとに流行るのか。そう訝る気持ちもわかる。しかし歴史が語るのである。先述であるが三つ葉はかつ丼などの添え物として使われることが多い。つまりいままで三つ葉はサブであった。しかしこのサブからメインに躍り出るスター発掘劇はパクチーもまた同じなのである。だから三つ葉だって主役になれる。おひたしにしてもうまい。生でサラダにしてもうまい。味噌汁に入れたってうまいんだ。それだけのポテンシャルを持っている。

 

しかし、パクチーというのは外来種である。本国タイなどでは日常に隠れているのでそんなに取り沙汰されない。ここで懸念されるのは三つ葉が本国である日本で流行るのか、という点である。上記理由によりパクチーは本国などでは流行らない。なぜか。それはすでに日常に溶け込んでいるからである。つまり流行りきってしまって殿堂入りしている。殿堂入りした食材がたどるのは一定の需要と供給であり、安寧である。

 

しかし三つ葉が日本の日常に溶け込んでいるか、と言われればそうでもない。どちらかといえばハレの食い物である。なぜならかつ丼やお吸い物などの非日常的な添付であったからだ。つまり、本国の食べ物は本国で流行らない、という点において、みつばは日常にイレギュラーな食材なのでだいじょうぶなんである。だから誰か一緒に三つ葉産業をはじめませんか。