まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

慣らし保育で慣れなかった

 

2歳の息子が慣らし保育を終えた。慣らし保育というのは、こどもが保育園になれるまで短時間保育をすることである。お昼までとか。息子は転園であったためすぐにその施設になれた。すでにお友達もいるようだ。ほんとうに私の血が混じっているのか。そう思うほどの調和技術をもっている。

 

慣れなかったのは父のほうである。つまり私が慣れていない。先前は妻が送り迎えの担当をしていたが、今回送りが私の担当となった。だからさいきんは毎朝なかよく保育園にかよっている。この配送が毎回事件なのである。

 

保育園につくとまずロッカーに向かう。わが子の名前が記されたロッカーである。持参したコップ、エプロン、タオルをロッカー上のカゴに配置する。着替えをロッカーに収める。紙おむつを所定の場所に整列させる、などである。そのあと先生のところへ連絡帳を持っていく。このとき連絡帳は息子が持っていってくれる。譲渡するときにはしっかりと「ほな本日もよろしゅうたのんます」的なことを言う。できた2歳児だと思う。

 

そしたら我が家の2歳児はそそくさと遊びに行ってしまう。早朝であるためこどももまだ少なく寂寞としている。しかし、彼はここぞとばかりにおもちゃで遊び始める。絵本を読み始める。マイワールドを展開する。つまりここで感じるのは、パパさみしいということである。

 

さみしくて泣いてしまう子もいる。先日もそうであった。1歳児クラス、別称あひる組さんの男の子は顔面を紅潮させ、だあだあじゃあじゃあ泣いていた。その子の血胤関係とおぼしき女性は眉を顰め苦笑しながらも保育園を出て行った。これは仕方ないのである。時代がそうさせるのである。いっぽう三十路のおっさんはというと、締め付けられるような胸の苦しみを一粒の涙に変え、それがこぼれないようにぐっと歯を食いしばっていた。

 

涙の理由を述べたい。それはさまざまな思いが錯綜していた結果である。思いはエアーホッケーのパットのようであった。思いはてけてけと電子を鳴らしながらあっちに行きこっちに行き、つまり頭の中を駆け巡った。

 

最初はは離別の念が出てくる。やはり離れ離れになるのはさみしい。寂しさの涙。でも息子のあの様相はそんなにさみしがっていない。それがまた私の寂情を加速させる。しかしこれはとてもありがたいことである。だって他の子は愚図っている。つまりこれは、私はとてもラッキーなのかもしれない。ということである。なぜならわが子は愚図らないから。これはラッキーでもあるがやはり息子に感謝である。感謝の涙。うちの子、めっちゃえらい。ん?えらい?「えらい」ということはなにかの成事に対して言うべきであり、この場合「えらい」というべきではないのかもしれない。いや、そうか、わかった。あの子はがんばっている。本当はパパと一緒がいいのである。それを、パパが困惑するから、お仕事に行けなくなってしまうから、ぼく我慢するよ。いってらっしゃい。そう思っている。なんと健気な。あの子は強い子だ。すごい。だからえらいと褒め称えるのは正しい。父を思う息子に涙。ああ、いますぐ抱きしめて頭頂部を撫でたい。でもそんなことはできない。だってそんなことしたら彼は甘えたくなってしまう。甘えたくなって保育園に行きたくなくなってしまう。そらあかん。息子の努力を無駄にする気か、俺は。あほか。でもなんで保育園に行きたくなくなるのがあかんのか、と言えばやはりそれは私が会社に行かなければならないわけであって、この世を恨む。もし私がユニクロのCEOならば息子を保育園に通わせなくていいのである。なぜならば妻が専業主婦でいられるから。実際問題そんなにカネはなくていい。うそ。めっちゃほしい。でもせめて妻が働かなくていいように出来ないのか。そんなカネも稼げない自分が情けない。くやしい。涙。そんな私を尻目に遊んでいる息子。無神経か、あいつは。ばかなのか。俺がこんなに全身全霊をもって思慮しているのにへらへら笑いやがって。怒り、これもまた涙。なんでこんなに憤慨するのか。それはやはり私が労働の義務をはたさねければならないカルマを背負っているからである。あぁやだな。仕事行きたくないな。つらいな。涙。あぁ楽しそうに息子は笑っている。もしかしてパパといるより楽しいのか?そんなひどい。パパは息子といるのが一番楽しいよ。なのにパパのこの気持ちを汲んでくれないのかい。ねぇ。一緒に遊んでよ。ってかちょっとは、パパいかないでぇ…とか寂しがれよ。なんだよ。寂しいのはけっきょく俺だけかよ。孤独の涙。

 

そんな感じで私はいまだに保育園での息子とのバイバイに慣れない。涙。

語れ!涙!

語れ!涙!