まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

ドキュメンタルを見た感想。どうしておもしろい、つまらないと賛否が分かれるのか。

 中空に「ぼけ」が漂流していた。しかしだれも「つっこみ」をしない。なぜなら、面白くなってしまうからである。

 

 お笑いとは打ち上げ花火のようなものであるなぁと思う。丹精込めて作成した「ぼけ」に「つっこみ」で火をつける。炸裂するのは人心の抑えきれない感情である。空虚な心の闇に忽然と開花するのは笑いという花火である。

 

 そんな3号玉がぷかりぷかりと浮かんでいた。眼前を過ぎ行く。だれも火をつけない。なんともいたたまれなくなる。不発に終わるボケ玉。なぜ導火線に火をつけないのか。

 

 笑ってはいけないからである。

 

 だから着火せずにやりすごす。着火すれば自分を含め爆発してしまう。ゆえに流す。それ自体がまた面白さとなって空間を支配していた。それが私の個人的「ドキュメンタル」の面白いと思ったところです。

 

 アマゾンプライム会員が独占して視聴できる「ドキュメンタル」というコメディ作品を拝見した。なにを隠そうこの作品、かのダウンタウンというコメディアングループの構成員である松本人志氏が監修しているのである。

 

 ドキュメンタルは1期と2期が配信されているのですが、両方みました。面白かったです。妻と拝見したのですが、妻もおもしろいと申しておりました。

 

 しかし、これが「面白くない」「不快である」と慨嘆するお方もいらっしゃるな、と実感しました。というのも下劣きわまるような所作の連続であったからであります。食物を無駄にするようなことも多かった。陰茎の露出などもあった。ゆえに視聴していて思わず目を背けたくなるようなこともあった。

 

 人には個人の中で潔癖感というものがあるとおもう。どこまでを良しとし、どこまでを悪しとするか。

 

 実例を申し上げたい。「人の作った握り飯をくえるかどうか」みたいなところである。人の手垢にまみれたおにぎりを食えるかどうか。直肌でにぎったおにぎりなんて言語道断!という御仁方もいらっしゃれば、ぜんぜん食える、という御仁方もいらっしゃる。

 

 私も深田恭子の分泌物のまじったおにぎりであれば食いたい。などと言うと、この「分泌物」という字面にさえ厭悪感をもつかたもいらっしゃる。そういった境界線のようなものを個人個人でもっているのではないだろうか。

 

 その潔癖感、境界線が崩壊していた。とくにジミー大西氏である。

 

 氏は1期2期と参加しているのだが、彼という引力で発生する笑いの潮流にはその潔癖感が瓦解しているものが多かった。とくに陰茎をさらけだすようなことも多かった。

しかし、無論それはジミー大西氏だけではない。各参加者は陰茎や菊門などをさらけだし、笑いの10尺玉にしようと試みていたのであった。

 

 どうして皆いかように陰部で笑いを取ろうとするのか。それはこの映像作品がネット配信だからということもあるとおもう。テレビでは放送倫理につまづくことをネット番組では出来る。それも一様にあるとおもうが、なによりも「なにしてんねん」という心のつっこみを引き出すためでなないか、とおもった。

 

 ドキュメンタルは笑ってはいけない。笑うと退場になる。そして参加費用を失う。これはなんと当時の日本通貨で100万円の価値がある参加費用である。とても小さな金額とはいえない。

 

 ルールは「笑ってはいけない」ということだけである。あとは10人の芸人が密室で6時間過ごすだけ。つまりプログラムの中と言えども日常の延長なのである。互いに相手を笑わせる用意をしてくる。

 

 日常の中でおもしろいこと。それは異物感だな、とドキュメンタルを拝見して私はあらためて学問した。

 

 芸人ならネタで勝負すべき。というのはもっともなのだが、こういったケの場面でネタをすることは場をハレにしてしまう。そうすると皆身構えてしまう。結果、笑わないし、笑わせられない。

 

 それよりも、なんでこんなものが!というような、ふとした異物感。それがとても面白いのだなと学問した。だからみなの心にある「なにしてんねん」「なんでこんなものがあんねん」という気持ちを引き出す作業、それには陰茎の露出や潔癖感の瓦解がインスタントなのではないだろうか。

 

 だからこそジョイマンなどはとてもおもしろかった。ふいに目に入るそれの「なんでこんなもんがあんねん」感はまさに異物感のそれだな、と思った。

 

 笑ったか、笑わなかったかの判断は松本人志氏の一任である。面白くない、つまらない、という御仁方はここに不平を募らせると思う。しかし私はこれが正解であると思った。これを厳密にやってしまえば、私はドキュメンタルは面白いと感じないだろう。

 

 FUJIWARAの藤本敏史氏、通称フジモン氏などは最たるものである。彼はつねに破顔すんぜんのぎりぎりの顔面をしていた。それでも彼にはジャッジが甘かった。

 

 私はそれでよいと思う。なぜなら彼がいなくなると面白くなくなるからである。彼の常におもしろいことを探してしまう能力。そしてそれを言ってしまえば自分が面白くなってしまう。だから言葉にしたいのに出来ないというもどかしい空気が漂う。彼から発せられる「我慢の雰囲気」が最高だった。

 

 私が面白いとおもうのはそこであった。笑いの導火線に火をつけまい、と懸命に論点を冷静に判ずる雰囲気がとても面白かった。それはフジモン氏や宮川大輔氏などがよく醸していたと思った。

 

 ゆえにドキュメンタルはおもしろいことを見つけられる芸人から脱落していくのではないだろうか。よく笑う人はおもしろい御仁方が多いと思う。もちろん笑いというのは緩急の付け方なので真顔でいることが大事なのだが。

 

 正味、私は「すべらない話」という番組が嫌いになった。最初はおもしろかった。というのも最初は殺伐とした空気が通っていた。絶対に面白い話をしなければならない。しなければ死ぬ。みたいな雰囲気があった。

 

 しかし昨今のすべらない話という番組はなんなんですか。「笑うことが前提」みたいな風潮になっていませんか。なんなんですか。あのゲストというのは。あれが最高に害悪であると思う。多少面白いことを言えばいいみたいな全体的に寛容な雰囲気がさいこうに面白くないな、と思っています。

 

 それよりも「笑ってはいけない」という状況がまず空気を緊迫させる。その効果はふだんは歯牙にもかけないワンフレーズを途轍もない禁句にしてしまう場合がある。「オール阪神巨人の巨人です」なんてのはそれだったと思う。ふだんなら「なんやそれ」で終わってしまうものである。しかしあの空間では全員を笑わせるキラーフレーズとなった。それはやはり「笑ってはいけない」という理不尽な拘泥がもたらす切実な空気のせいではないかと思った。

 

 空気、場面の力が大きく働いた偶発的な笑いがおおかった、気がする。これを面白くないと言う御仁方はいると思う。なぜならこれは「未完成」な部分が大きいからだと思う。

 

 芸人さんのネタというのは完成された芸術品だと思う。その完成された世界観が好きな方はもしかしたら面白くないと感じるのかもしれない。完ぺき主義者だと思う。

 

 しかし私のようになんとなく場面の空気を楽しめる人は面白く感じるのではないだろうか。私は楽観的なのである。というのがドキュメンタルを見た感想でした。

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