まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

俺が俺であるために俺はブログを書いている

 日々、自分を殺して生きている。日本の社会において自己主張をすることは、絶対悪とみなされる風が吹いている。とくに月給取りのような仕事をしていると、長いものには巻かれなければいけない。遣る瀬無い人生だとおもう。

 

 そうして押し込めた感情は、衣装ケースの奥にしまわれたティーシャツのように忘れ去られてしまう。いつの日かくしゃくしゃになって出てくるが、真新しい気持ちは灰を被ったようにくすんでしまっている。もったいないとおもう。自分の意見はフレッシュなうちに慙恚をもたずに発するべきだ。

 

 はてなブログの今週のお題は「私がブログを書きたくなるとき」というものだ。俺は毎日の自分を押し殺して生きているが、このブログだけはちがう。俺が俺であるためにブログを書きたくなる。それが社会に、民意に反するものであってもだ。だから俺は書く。ゆでたまごは固めのほうが好き。

 

 というのも、先日。「黄身が半熟のゆでたまご、めっちゃうまくない?」的な、語尾上げ気味の談笑を聞いてしまった。ばかな。そもそも「半熟のゆでたまご」という語彙のられつが破綻している。半熟なゆでたまごはゆでたまごではない。半熟たまごだ。

 

 たしかに、と一旦みとめよう。半熟のたまごは美味い。市場における半熟卵の八面六臂の勇躍もしっている。半熟たまごがすべての料理をグレードアップさせる。とろける黄身はチーズにも劣らない至高の付属品だとおもう。数十円増しで半熟たまごが従属するのならば、その勘定に煩を厭わない。百円だと悩む。

 

 しかし半熟のたまごは、「たまごを食う」という行為にたいしての間尺が合わない。たまごに含有されるタンパク質、コレステロールなどを念慮すると、どうも腹持ちが悪い。食った気がしない。つまり、半熟たまごはうまいが一品としてパンチに欠ける。けっきょくいつまでたっても半熟たまごは食物として一人前になれない、半可者のモブでしかいない。

 

 いっぽう、かちかちのゆでたまごはどうだ。たまごを食っている感がものすごく感じられる。凝固した白身は特有の弾力を放ち、かぶりついた先にまっている黄身がほろほろと砕け、なかから一筋の湯気が立ち昇る。まさに昇竜のごとし。これがゆでたまごの本髄であるとおもう。なにより腹持ちが好い。

 

 昨今のダイエットブームにより炭水化物の代替品としてゆでたまごを食うひともおられるだろう。どうですか? 半熟のたまごでまんぞくできますか? できないでしょう? 半熟たまごじゃあ草なぎ剛だってまんぞくできない。坂東英二はなおさらだ。

 

 きっと半熟たまご信仰のひとびとは、ラーメンの付属にかためのたまごが添付されてきたら嘆息するだろう。しかし、それは「たまご」という食物をサブ的な位置づけとしてしか見ていないゆえんであるとおもう。歯に絹着せず言おう。おまえらはたまごをなめている。

 

 俺はたまごをなめていない。侮っていない。だからたまごがたまごとして一人前になれるようにゆでたまごを固めに作成する。半熟たまごのほうが手塩にかかっているだろう。しかし獅子は千尋の谷に我が子を落とす。たまごがひとつの食い物として自立できるように、俺はあえて鍋にいれたたまごを放置する。

 

 結句、半熟のほうが手間がかかるがスピーディに練成される。だけどじっさい時間がかかっているのは固めのゆでたまごのほうだ。平成の世の中、すべてが便利になり時間短縮をねらっている。高速でものごとがなせるようになってきている。

 

 でもそれでほんとうに好いのか。なんでもかんでもお手軽にするのが好いのか。子育てだってそうだ。親が便利になる手段が豊富だが、ほんとうの愛は昔から変わらない。それはじっくりと醸成させるものだ。

 

 だから俺はあえて時間がかかる固めのゆでたまごを作る。たまごが立派に一品の料理になるように見守る。手間を惜しんでいるわけではない。これは愛なのだ。たまごに対する愛なのだ。だからゆでたまごは固めのほうが好き。でも目玉焼きはターンオーバーしないで! だってサニーサイドアップで半熟のほうが好きだから。なんだこの話。

曙産業 レンジでらくチン ゆでたまご4ケ用 RE-279

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