まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

夫婦別姓について母が離婚し母のもとで父親の姓を名乗ってる俺がおもうこと

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 なんだか、夫婦別姓をみとめさせるために法を変える! と眦するどく、不退転の決意をなしたひとりの男がいる、という話しを見た。なんと豪儀な話しだろうか。

 

 すばらしいことだとおもう。現行の法律では夫婦同姓しかみとめられず、めんどうな手続きが多いそうだ。法律にたった一文加わるだけで、いまの煩雑な世界をかえることができるという。玄妙だ。

 

 たしかに我が糟糠の妻も苗字がチェンジしたときに、さまざまな届出が必要だ、めんどうだ、と伸吟していた記憶がある。すまないね。

 

 私の姓は望月という。母ももちろん望月だ。父はいない。生物学的系譜からすれば「いない」ということはありえないのだが、いない。なぜか。母は離婚しているからだ。でも母は旧姓にもどさなかった。

 

 そうして母子ともに父親姓の望月をしようさせていただいている。母曰く「姓名判断においてすごい運気をもつネーミングが旧姓だと発揮できねぇからだ」と言っていた。

 

 なんちゅう嘘をつくのであろうか。「またぞろ新たな手続きをするのがめんどうだった」というのが本音だろう。ってゆうか、大人になってからそう聞いた。もしかしたら上段落がマジの本音で、今段落のものが照れ隠しの遁辞なのかもしれない。俺は母親のことがいちばんわからない。

 

 ちなみに「めんどうだからって元夫の姓を名乗るのは並大抵のことではない」とおっしゃるかたが居るかもしれないが、それは断っておこう。母はその父母、つまり私の祖父母のことを嫌悪している。ゆえに過去の苗字なんてどうでもよかったのだろう。

 

 そういうことで、夫婦別姓ではないが、私は祖父母と姓がちがう。私はこれがしょうじき厭で仕方がなかった。母子家庭なので母が労働する。ゆえに祖父母の陋屋に雪隠詰めされていることがおおく、またレジャーなどの行楽も祖母祖父、俗名宮崎さん一家と行くことが多かったがため、「宮崎さんとこの」と形容されることが多かった。ちがうよぅ。ぼくはみやざきじゃないやい、と思っていた。

 

 この齟齬はなんと申したらよいのか、わからない。ただ一般的な家庭とちがう、ということに忸怩たるおもいを抱いたのかもしれない。しかし苗字がちがうだけでなんというかそこにいることの場違い感というか、空気の差というか、うすい皮膜のような隔たりがインビジブルにそこにあった。

 

 祖父母であってもこれだけの異をかんじた。もしかしたら私が繊細なのかもしれない。まぁ私は繊細なA型なのだけれども。いろんなひとの手垢が付いているかもしれないからコンビニの弁当は奥から取るタイプ。でも、これがもし父母の苗字において展開されたらどうなのだろうか、と不安がよぎる。

 

 はは、ばかめ。うちの子はそんな瑣末な出来事なんてきにしないよ。惰弱な表六玉のおまえと一緒にすんな。あほか、ぼけなす。そういった声が聞こえそうだ。待ってくれ。子どもに「おとうさんとおかあさん、苗字ちがっても好いか」と聞いたのだろうか。おそらく子どもは「好い」と云うだろう。

 

 でも親に本音を云える子どもが世の中にどれほどいるのだろうか、と思う。みんな親に本音云えるの? おれは云えなかったな。よく「親はいつまでも子どもの味方だ」と云うふうな文言を見るけれど、俺はこれ逆もあるとおもう。子どもって親の味方でいてくれるんすよ。だから親の意志みたいなものを尊重してくれるんすよ。あ、パパはこういうふうにしたいなんだな、ぼくはそれはみとめてあげなくちゃいけない。ほんとはちょっといやだけど。みたいな。

 

 夫婦別姓、ありだとおもう。ただ子どもへ「なぜそうしたのか」というのを判然と説明できなければいけないとおもう。その理由が「めんどうだからだ、変わるのが厭だからだ」という親側の感情だけのものであれば同姓のほうが好いとおもう。子ども心に「ママはぼくと一緒の苗字になるのがいやだったんだ」とか思いかねない。

 

 本音を云ってしまえば、夫婦別姓にして、子どもがいる人が身近にいたら俺は超個人的に「このひとやばいひとかもしれない」と思うとおもう。なぜならば「子どもと姓が別でもよい」なんて思っている人は、親としてなにか欠けている、と思うとおもうからだ。

 

 不便、めんどう、というばかりで、子どもの感情をまったく気にしていないふうなところに「このひとの子どもは自分の意志を尊重できる環境に生きているだろうか」とおもう。また超個人的なことを云えば、子どもが生まれたら親は自分の人生よりも子どもの人生を優先すべきだ、とおもう。

 

 夫婦別姓について選択肢がふえ、えらべる自由! みたいなものは車のカラバリみたいなかんじで好いと思う。時代がそういうふうだからだ。たとえ夫婦が別姓であって、その子どもがどちらかの苗字しか名乗れないとしても、親子の絆みたいなものは普遍であるとおもう。おもうが、その子にとって小骨のような異物感は感じるだろう。俺の祖父母が俺と苗字がちがったことのように。

 

 子どもをもつ夫婦に限定した話をかいてしまった。それに「うちの親は事実婚でとうさんとかあさんが苗字ちがったけど、私はなんともおもわなかったよ」というひともおるだろう。それは君のおとうさんとおかあさんの立派で、君も海容な心をもっているからだよ、と思う。

 

 俺のような卑小で斗筲な人間は、ちょっとした異物感で地に落ちるような絶望、暗澹たるわだかまり、世間に堂々とできない慙愧に耐えぬ思い、を胸裏にいだいてしまう。そういう子どももいる、という事実だけでも夫婦別姓をチョイスする人は覚えておいて欲しいな、とおもう。