まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

妻への不満

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 偕老同穴の契りを結んだ糟糠の妻といえども、憤懣やる方ないことだってある。おそらくすべての夫婦が、おたがいにちょっとした不満を抱えているはずである。

 

 ちょっとした不満だからこそ、いちいち諫言を呈するのもはばかられる。だからといってどこかでその憂さを散じなければ、不満は培養され、膨張し、乗数効果。そうしていつか邪念となり爆発してしまう。

 

 本日。そんなちょっとした不満をかんじた。ちょっとした不満ってゆうか、めちゃくちゃ怒っている。また水筒からお茶が漏れていたのである。

 

 この「また」というところがポイントである。むろん、ひとは誰しも間違いを犯す。そうゆうどうぶつ。最初のミスであれば瞑目し、海容なこころでもって「そんなこともあるさ」で流れる一件である。

 

 しかし、その後も水筒から茶が漏れた。ゆえに「茶が漏れるでの水筒のパッキンはしっかり閉めてほしい」という警告をした。前回注意しなかった私がわるかった。だから言う。茶が漏れる原因は妻による水筒パッキンの接続不備である。

 

 ここで「じゃあ自分でやれ」といった感じになるかもしれないが、ちょっと待ってほしい。拙宅の家事はきほんてきに分担制度をとっていない。ともに共通の家事認識をもって、どちらかが余裕のあるときに行う、という制度をもうけている。

 

 おたがいに敬意をもっているため、我が家はこれでうまくいっている。いわゆるゲマインシャフト。会社で「誰がいちばんはやく電話をとるか」みたいな、先手をとったもの勝ち、みたいな機運さえ高まっている。

 

 ゆえに妻が水筒を準備するさいに「パッキンの確認」について物を申した。きみは中央大学をでているのでわかるとおもうが、水筒のシステムからすれば、そのパッキンの設置密度がもっとも肝要なのであるのだよ? と申し上げた。

 

 三度目の茶漏れ事件があったのはいつだったろうか。いいかげんに私の怒りのボルテージも最終局面を振り切れたため、「もうおまえは水筒にさわるな」と申した。おまえが水筒にさわると茶がもれる。

 

 そうしてしばらく私が用意していた。而して後に、ほとぼりが冷めると家事の共有という概念によって、その水筒担当という役割が、なんとなしにうすまり、霧のように散じてしまった。そうして妻が水筒を用意することも増えていった。

 

 正味、それからも時折、茶が水筒から漏れることはあった。でも、良かれとおもって水筒をしたくしてくれた妻になんども「水筒から茶が漏れる」と言うのもなんだか悪い気がしてしまう。

 

 だけども今日は業を煮やしている。なぜかというと、今日は気が狂うほどにさむかった。それに平成三十年 一月 二十二日 月曜日にふりそそいだ豪雪により、関東は茫漠たる雪原。歩行路は通行人により圧縮された雪が氷塊となっており、それは靴底のグリップによる摩擦力を極限までゼロにちかづけ、さらに水気をおびているため靴はしめり、くつしたは濡れる。

 

 その事態を想定していた私は、だいたいのくつしたを用意していった。おまけに手ぬぐいも仕度した。それらをかばんの水筒とお弁当とおなじ区画に詰め込んでいたのである。

 

 つまり、せっかく仕度したくつしたと手ぬぐいが、漏洩した茶によってぐっしょりと重くなるほどに濡れてしまっていた。多少靴が濡れても大丈夫だろう、代わりのくつしたあるし。と思っていた私のこころが、このときどれほどやりきれなかったことか。

 

 この水筒の漏洩にきがついたのは電車内であった。本日は電車がとても空いており、着座することができた。そのさい、かばんを大腿部におくのだが、どうやらかばんが濡れている。あれ? 雪かな? なんて思ったのだが、こんな底面が濡れるはずがない。おっかしーなー、とおもいつつ胸裏をよこぎったのは茶の悪夢である。

 

 いつも見ている風景がこんもりと積もった雪によって、情景を変えていた。電車の窓からのぞく、いつもとちがった街をすいた電車の借景として楽しもうとおもっていた。そんな矢先のできごとである。

 

 電車がホームにとまり、扉が開くたび、凛と冷えきった風が乗車する。そのたびに私の濡れた大腿部はするどいつめたさをかんじるのであった。その刺すようなつめたさに気を捕らわれてしまい、せっかくの風景をたのしむ余裕がなくなってしまったのである。

 

 ふだんはしない憤怒のラインを入れた。「ごめんなさい。今日かくにんしてなかただ」という誤字のラインが届いた。そういう確認がだいじですよ? と、さらにちょっと不満が積もった。