肉よりも魚のほうが高い。
牛肉はべつとして、豚肉、鶏肉であれば魚よりもぜんぜん安価で入手できる。冷凍の魚になるとちょっと話はかわってくるかもしれない。あと漁村ならば魚のほうが安いのかも。でもやっぱり魚は肉よりも高額だとおもう。
そんな魚と肉のたちばが逆転する現象がある。それがアジフライである。
どうもアジフライというものが世間いっぱんてきになめられているような気がしてならない。アジフライの受難。差別、いじめ、駄目。ぜったい。
フライの王者といえばとんかつだろう。スーパーの惣菜屋さんで一枚298円。しかしアジフライはどうだ。一枚120円そこら。どうしたアジ。あんなに精彩をはなっていたサシミ、ヒラキの栄光はない。
余談をする。エビフライはフライ界の女帝。そんなイメージがある。メンチカツは屈強な兵士長。コロッケはいわば兵士である。ちなみにカキフライは異能力者。そんななか、アジフライというのはくたくたの袷一枚、鋤や鍬のにあう水呑百姓ふうなイメージで、なんだか貧相である。
しかし、私はアジフライの隠然たるポテンシャルについて語りたい。個人的にこれはふたつあるのではないか? とおもっている。
まず、やはりアジフライの汎用性だろう。ここに敬意をもたねばアジフライに失礼だし、私がアジフライビギナーだと思われてしまう。アジフライに足向けて寝らんない。アジフライの汎用性、それはつまり「なにをかけてもうまい」という点である。
フライに注ぐもの、というと巷間ではソースと相場が決まっているのでないだろうか。中農ソース、ウスターソース、いろんなソースが横溢している。そういえば、ここでも「とんかつソース」というものがある時点で、やはりとんかつには王者の風格というか、特権階級のような光彩陸離たるものがありますね。
むろんアジフライはソースでもうまい。しかし、なんといっても醤油もベストマッチするのである。なぜならアジフライはそもそも鯵という青魚であるからだ。
この青魚、というポイントに着目すれば、なんとタルタルソースだって迎合してしまう。個人的にタルタルソースはソースではなく、一品料理だという認識があるが。まぁそれはべつの話しですね。
とんかつに醤油やタルタルソースが合いますか? そんな器用なまねができますか? 高禄に飽いたとんかつは、食物としての多元的性をうしなってしまったのである。ところがどっこいアジフライ。なんということでしょうか。この汎用性、ほんとすてき。
もうひとつ。アジフライにはとくべつな能力がある。それは、フライなのに青魚を食べている、という安心感である。
フライものを食うときに、ひとはどうしても罪の意識をかんじる。なんとなく、「大量の油を摂取してしまう。すくなからず人体に悪影響をおよぼすのではないか。ただちに影響はないかもしれないが」みたいな重い桎梏のような意識がある。
それでもひとはフライを食う。うまいから。ときに胃もたれという十字架を背負ってまで食いたいとおもう。これがフライの蠱惑性なのである。
しかし、アジフライは青魚である。青魚はからだに好い、とされている。しかも青魚には、コレステロールという食物に含有される毒性をいちじるしく低下させてくれる役割もある、のだと風聞したことがある。
このコレステロールというのはフライのころもに含まれているようだ。そのため、アジフライというのは、アジのコレステロール低下軍と、フライのコレステロール上昇軍が反駁しあい、判定はドロー。結果、差し引きゼロ。なにも摂取していない、ということになるのである。
こうしてフライにおける罪の意識に打ち勝つ。アジという免罪符。まさに神のくいものではないか!
アジフライはなにをかけてもうまい汎用性があるし、さらに体にも好い。だけどフライにされると、なんだか価格的にも軽んじてみられているふうなイメージがある。
だけど、それってじつはアジフライが「みんなにフライを食べてもらいたい。だけど、国民的な生活習慣病を蔓延させてしまうのは忍びない。じゃあぼくが価格帯をさげて、みんなにフライを気兼ねなく食べてもらおう」といった、自己謙遜とやさしさがあるのではないか、と私は見ている。まったく味なまねしやがるぜ。