まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

セブンの「もちもちお好み焼きパン」にノーベルパン賞あげたい

 セブンイレブンといううまいものしか販売していないよろず屋がある。そのうえ二十四時間営業だというのだから、ほんとセブンイレブンには足向けて寝らんないですね。

 

 そのパン棚に「もちもちお好み焼きパン」というのが陳列されている。これがすさまじくうまい。

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出典:もちもちお好み焼きパン - セブン-イレブン~近くて便利~

 

 うまさの秘訣は内部に籠められた「焼きそば」にあるだろう。外殻のお好み焼きふう生地の「もちもち」と、内部の焼きそばの麺ぐあいが、みごとなコントラストをえがいている。そして、この焼きそばにたいへんな平和的意義がある。

 

 この焼きそばは、焼きそば単体でみれば、そううまいものではない。いわゆる出来立てほくほくの、ソースが馥郁とし、かつぶしが湯気でおどり、青海苔が散っている、紅しょうがというアクセントがはいった「うまい焼きそば」ではない。冷えた油くさい焼きそばだ。

 

 しかし、冷えた焼きそばというのは、それはそれでうまい。ぱさぽその焼きそばは、それはそれで切実な哀愁がある。それがうまい。「冷や飯のほうが甘みが出る」みたいなことに似ている。

 

 おれはパンに麺類をはさんだ人間は天才だとおもう。麺はふだん啜る。たまに前歯で噛み切ることもあるが、きほんは啜り奥歯で咀嚼する。

 

 つまり、麺の歯ごたえ、噛み心地をおれの前歯は知らない。かなしいことだ。麺類は奥歯で噛みくだすことが正義、マナーなのかもしれないが、あの束になった麺の一塊を前歯でプチプチと噛み千切ることの悦楽は、人類が知るべき食感のよろこびである。それは、ようやくこの パン + 麺 という黄金のコンビによってなされたのだ。

 

 そんな麺へ牙をたてることの、狩猟民族としての遺伝子を思い出させてくれるエッセンスが、この「もちもちお好み焼きパン」にも含有されている。それが焼きそばの意義である。

 

 そろそろなぜおれがこのパンにノーベルパン賞をあげたいかを述べたい。

 

 われわれ関東人は(おれの生まれは静岡だが)、焼きそば入りのお好み焼きをお好み焼きと呼ばない。広島風お好み焼きと形容する。

 

 そういうと、広島人から「広島風お好み焼き」というものはない! という怒声があがる。まってくれ。すまんすまん。すまんじゃけぇの。

 

 ようするに、お好み焼きの「焼きそば」について、東西の齟齬がある。すれちがった思いがある。お好み焼きというパラレルワールドをたどっている。ちなみに露店なんかでは「モダン焼き」として売られていますね。

 

 つまるところ、この「もちもちお好み焼きパン」は、関東人ふうに正確に一言一句漏らさずいえば、「もちもち広島風お好み焼きパン」ということになる。

 

 しかし、この「もちもちお好み焼きパン」のほんとうの名前は、何度もかいているが、「もちもちお好み焼きパン」だ。そして上記が示すように、この「もちもちお好み焼きパン」に肝要なのが焼きそばだ。これがなければ「もちもちお好み焼きパン」が成立しない。しないんだよ。

 

 このうまさのシステムに、沈黙のうえで、焼きそばを組み込んだことに対し、おれはセブンイレブンの智謀をかんじる。

 

 焼きそばを入れることで、世界中のひとびとに「こりゃ焼きそばが佳肴である」という「お好み焼きと焼きそばの邂逅」をもたらし、それはつまり、広島人が潜在的にかんじている世間との齟齬を払拭させることでもあり、この「もちもちお好み焼きパン」のパンのうえだけでは、丁々発止、閃光が弾ける広島人と関東人との闘諍が終息しているのである。

 

 世界の紛争は、信念の対立で勃発する。その信念の反駁をみごとにパンのうえで戮力させているこの「もちもちお好み焼きパン」にたいしておれは快哉に震える。だから個人的に、平和の象徴であるノーベルパン賞をおくってあげたい。

 

今週のお題「表彰状」