まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

コンビニで品物を一個だけ買う、ということができない

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 生きづらさ、というか、じぶんの弱さ、のようなものを有体に記載することによって、「あぁ、なんてかわいそうなひとなんだろう」と読み手の同情心をあおり、「このひとは私が見守っていてあげなければいけない」という慈悲のこころを発生させることにより、けっかてきにこのブログの読者を得る、という戦略的な見地から、おれの生きづらさ、および、おれの弱さを書かせていただくと、コンビニなどで品物を一個だけ買う、ということが出来ない。

 

 どういうことか? というと、例をだしたい。先日のことである。花火を購入しようとコンビニに来店した。ドアーをはいってすぐ左手の陳列棚にそれはあった。花火を手にしたとき、おれの目的は達成したも同然なのだが、おれはすぐさまレジスターに向かうではなく、書籍の陳列棚から大回りにまわり、ドリンク冷蔵庫を観察し、ほしくもないカルピスと、その向かいの棚にある珍味棚からナッツ類をてにとり、さらには、お菓子売り場に行き、プリングルスのサワクリをもかかえ、ようやくレジに向かったのである。

 

 なぜそんな回りくどいことをするのか? というと、花火だけ購入した場合レジ打ちの店員さんに「このひと、花火だけ買っているけれど、すごく花火したいんだろうな」とおもわれることが、おれの慙愧に耐えないのである。

 

 花火というのは極端な例であるが、これがコーラの場合もそうである。「あ、このひとすごくコーラが飲みたいんだろうな」と精神を断定され、その後の行動を予測されるのが癪にさわる、というか、おれのプライドが傷つくのである。

 

 よって物品を数品購入することによって、品物から察せられるその目的、行動、心理状態を隠匿させ、霧隠しにし、レジのうえに並んだ物品から「おれ」という存在を消さしめ、イメージをもたれないようにするのである。

 

 ものすごい生きづらさである。なぜかというと、とくにほしくないものを買う、という消費活動は、いわば無駄なキャッシュフローであり、万年貧乏をしているこの身にとって、とても手痛い出費がかさみ、さらに貧にからまれるのである。

 

 なぜそのような愚昧な挙措をするのか。真剣に己自身を鑑みる。結跏趺坐。眼を瞑り、「おれとは?」という自問自答をたくさんリピートした。自己分析である。その結句、おれはひとつのすごい発見をした。これはつまりスパイの才能である。

 

 スパイというのは、その行動を悟られてはいけない。なぜなら命に関わるからである。命を奪われるだけであれば、もしかしたらそれでいいのかもしれない。「おれの人生、儚かったナァ」で終われるかもしれない。しかし、その行動には国家の存亡が関わるのである。

 

 おれは、コンビニなどで品物を一個だけ買う、という動息をとらないことによって、その目的、行動、心理状態を、だれにも知られまいと秘匿させる。おれじしんが国家機密である。だからおれは翳に生きねばならない。その存在を知られてはならない。つまりそうして、間諜の才覚を知らず知らずのうちに発揮していたのである。

 

 スパイ、というとなんだか毛唐の闇の文化のイメージがある。だからそんな才能があったってしょうがないじゃないか、という声をあげたくなるかもしれない。しかし、わが邦であるニッポンにおきかえれば、これはいわば忍者の才能である。おれは子どものころから忍者になりたかった。この天稟をもってすれば、もしかしたら夢が叶うかもしれない。

 

 生きづらいなぁ、とおもっていることであっても、その実ほんとうは、なにかの才能の裏返しなのかもしれない。だからその生きづらさをひた隠しにすることはない。おれはそうおもうし、おれはこの生きづらさが内包していた、真実の才覚に目覚めたので、ちょっとアメリカでニンジャビジネスの算段をつけよっかな、なんておもったのであった。