まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

自信と貧乏とラプトール

 蛇は寸にして人を呑む、なんて昔のひとは云ったが、蓋しそのとおりだなぁとおもう。なぜならば、息子の裂帛の気合に鼻白み、新作ヴェロキラプトル型ゾイド、ラプトールを購入してしまったからである。

 

 そもそもトイザラスに行ったのが人生のおおいなる過失であった。ではなぜそんな魔窟に行ったのか? というのも、ちかい未来。わが子には運動会、園外活動、おいもほり、などのイベントが目白押しであり、そのため昼餉に弁当を携帯する必要がある。ゆえに誂えた弁当をおさめる箱状のもの、つまり弁当箱が必要になったのである。

 

 宿命的な貧乏である。おそらく横領、強奪、盗品、賄賂の受領など各種悪事をおこなわず、真率潔白に生きているから貧乏なのだろうが、しかしそんなに貧乏であっても子どもにかなしい思いをさせたくない。彼の好きな弁当箱を買ってあげたい、とそう願ったため100円でなんでも買える道具屋ではなく、トイザラスに行ったのである。

 

 しかし元来、トイザラスというのは玩具屋である。そこには洋の東西を問わぬ、絢爛豪華な玩具がところせましと並んでいる。いわばそれは子どもにとって物欲のトリガーとなりはて、あれやこれやと強欲の海におぼれてしまったのであった。

 

 そして来る平成三〇年九月二九日。新作ゾイドが三体発売された。大型ゾイドはトリケラドゴス、中型ゾイドはナックルコング、そして小型ゾイドはラプトールである。仰仰しいポップ広告などはなかったが、それは一種のオーラを放ちながら陳列棚に並んでいたのである。

 

 わが係累はもうすぐ四歳の日をむかえる。ゆえに「誕生日に買おうね」と云ってある。だがしかし、あろうことか「じゃあ帰らぬ」などと彼は逆ねじを食らわしてくるのである。丁々発止。妻の具合もあまりよくないためできれば早く帰りたい。

 

 つらい貧乏であるが背に腹はかえられない。そういったことで、値段をみればラプトールならば千円あまりで買えてしまう。しかも今週やたら雨がつづく模様なので、室内玩具を購入しておけば、彼のストレスもすこしは程度軽減されるのでは? という考えに至ったのである。

 

 そういうことで、「毎日保育園がんばってるもんね」とこじつけ、ラプトールを購買した。あと、まぁ、正直にいえば、実はおれもほしかった。ゾイドはふつうに大人もほしいですよね。

 

 なにかの本で読んだが、「○○できたら△△を買ってあげる」よりは、ふいに「毎日、がんばってるね」などと云って、サプライズ気味にプレゼントを呉れてやると日々善行を施す努力をする、らしいのである。

 

 甘やかしとはちがうが、ほめる教育というのが今様の教育の流行である。だがここでおれにはひとつの疑問が湧いてくる。つまり、ほめることによる教育の産物、「自信」の質、その精度についてである。

 

 自信をつけるのは好いことだとおもう。しかしその自信の質はもっと問題視されるべきである。つまり、ちいさな出来事を称揚しつけさせた自信は、おおきな出来事でついた自信よりもかなり劣るのではないか、といふ疑問。さふいふ疑問。

 

 すなわち、おなじ三歳児であっても、ピアノの発表会などで成果をのこした子が「いつもがんばっているね」と云われるのと、ちょっとした買い物のつきあいをしただけで「いつもがんばっているね」と云われるのでは、自信の質、その精度におおきく差があるのではないだろうか。

 

 それになにより、親のとしての尊厳のもんだいがある。要するに、その小さな自信をつけさせた人間、つまり彼の親、その実体はこのおれであり、つまりおれが人類の一般的におこなっているふつうにできることを「すごいねぇ」と誉めそやすことは、おれの「すごい」の水準の低さを示唆しており、したがってそれはそもそもその人間の水準が低いということになり、このおれが平均的な人間よりも拙劣である、ということの論理に行き着く。マクドナルドを「うまい」と云うとふだん好いものを食っていないみたいな風潮になるあのかんじである。

 

 すると、わが子は「おまえなんかクソだな」なんて思う可能性がでてくるわけであって、こんなのに親炙しちゃって人生まずいことになるんじゃないか。あれは砂上の楼閣だ。とかおもいいたることになる。それは甚だ癪である。

 

 なによりも憂うのは、拙劣愚鈍な人間からの遺伝子を引き継ぐぼくはもう宿命的に立派な人間にはなれないんじゃないか、と息子は自分の限界を決めてしまうことであり、自信をつけるつもりが逆に劣等感の烙印をおしてしまうのではないだろうか、という問題が急激に浮上してきたのである。

 

 だがしかし、蛇は寸にして人を呑む。冒頭にもかいたこのフレーズは、「自信」業界にも通底する世界の真理であり、ちいさな自信であっても、そのポテンシャルがあれば、どんなおおきな自信にたいしても負けない、とてつもない強さを秘めた自信なんじゃなかろうか。

 

 というわけで家に帰り、さっそくラプトールを復元せしめた。するとどうだろう。蛇は寸にして人を呑む。息子はちいさなラプトールをして、身の丈ふたまわりもあるワイルドライガーを攻撃せしめ、その鎧われた装甲を剥ぎ取り、みごとに攻略していたのである。やはり蛇は寸にして人を呑むのだなぁとおもった台風の日。

 

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