まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

ととかととかか

 お侍様が旅籠かなんかにご入店するさい、「許せよ」と一言言放つ。超かっこいい。「失礼する」でも「御免」でもない、「許せよ」。これが好い。「許す」という赦免の気配が濃ゆい言葉を、命令形で言う。「許す」にそんな応用系あるぅ? とびっくりしてしまう。

 

 だからこそ使用したさい、もの珍しさとともに孤高の存在感が高まる。おれは孤高の存在でありたい。ロンリーウルフだ。けっして居丈高な態度や傲慢のかんじを出したくは無いが、かっこよくありたいのである。

 

 過日。近所に珈琲店があたらしく普請された。これは「許せよ」のチャンスであるとおもった。この「許せよ」には「ちょっとした逗留をご許可願いたい」という意義があるとおれはおもっているからだ。だから栄養補給が主眼であるレストランや、物品購入が目的のホームセンターなどではどうも使いにくい。

 

 チェイスザチャンス。かつてアムロナミエという歌手がそう歌った。珈琲店ならばちょっとした逗留、すなわち休憩を目的としてもおかしくない。いざ行かん、珈琲店へ。と眦を決してその珈琲店へ向かったのである。

 

 結果から言うと、「許せよ」は失策におわった。小心翼翼たるおれは言えなかったのである。営業を開始したばかりの店舗には、たくさんのひとが輻輳しており、カランコロンとドアーをあけた鼻先には、もうすでに順番待ちの列がぎゅうぎゅうに詰まっていたのである。

 

 しかし、とてもうまい珈琲であった。座敷もあったので子連れにもやさしい。せっかく並んで珈琲だけ、というのも人生に味気がないので、店が巨大な写真をつかって推薦している、オカブランというパンケーキをも注文したのである。

 

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 はじめからパンケーキと言えばいいじゃん。とおもうけれども、おそらくなにかしらの隠された意図があるのだろう。そんじょそこらのパンケーキとはわけがちがう。そんな鼻息の荒い店側からのプレッシャーをひしひしと感じる。おれはそういうの嫌いじゃない。

 

 ただ、ひとつのパンケーキを家族でわけあうのもどうも吝嗇くさい。おれは小腹が減いていると自己暗示をかけ、ちょっとしたものを食おうと企図したのである。よって、ちょうどランチタイムがやっていたので「日替わりパスタ」、これも注文したのである。

 

「あ、あと…日替わりパスタで」

「パスタなんですが、本日は彩り野菜のホワイトソースと枝豆とトマトのジェノベーゼになります」

「はい、それで構いません」

「?」

「!?」

 

 膠着状態であった。そのとき妻が容喙し、テーブルに備え付けてあったおしながきを手前に差出した。「これか、これのどっちかだって」と教授してくれたのである。おれは、じゃあホワイトソースのほうでと申し上げ、御用聞きはやれやれといった体(てい)でキッチンへと消えたのである。

 

 情けないことだが、いったいなにが起こったのかわからなかった。世界がどうにかなってしまったのか。はたまたおれの言語がおかしかったのか。妻と御用聞きの間では意思の疎通は成立していたが、おれにはその思念が伝わっていなかった。

 

 すなわち、日替わりパスタは選択性であり、「彩り野菜のホワイトソース」もしくは「枝豆とトマトのジェノベーゼ」のどっちにするのー? と御用聞きは訊ねていたのであった。

 

 たしかにふたつの選択肢があるばあい、AとBどちらにする? と訊く。けれどもメニューに「日替わりパスタは選択性です」と、眼光紙背に徹しても、そんな記述は見当たらなかった。

 

 であれば、きほんてきにその二択の結びは「か」であるべきではないのか。「パスタなんですが、本日は彩り野菜のホワイトソースか枝豆とトマトのジェノベーゼになります」と訊くべきではないのか。アンドではなくオアで結ぶべきではないのか。

 

 しかし、選択の余地のない人生なんておもしろくない。おれもそうおもう。珈琲店は日替わりパスタにおける選択の自由を客にゆだねた。うれしいサービスである。そして言語の結びの「と」か「か」も御用聞き自身のゆだねたのである。ひどく鷹揚な珈琲店である。

 

 平成も終わる。歴史のできごとを学問すると、ひとびとは自由のために闘った。選択の無い世界へ反発した。自由とは反発するエネルギーである。だからいいんだよ、「と」でも「か」でも。いちいちそんな粗末なことを気にするな。許せよ。