まだロックが好き

まだロックが好き

おめおめと生きている日記

小便チョロ太郎

f:id:yuasayo1013:20190107132354j:plain

 

 四歳児に「おふろはいるから、おしっこしといで」と命令している。さらぬだに能動性をもって小便に行かぬ四歳児である。かくせざれば、浴室にて小便を放つ、といういみじき禍事になりかねぬのである。

 

 するとどうだろう。四歳児は「パパもいっしょにきてくれよ」と提案をもちかける。一般的に「連れション」というのは、日ノ本に生まれた男児の須らく通過する社会的コミュニケーションである。よしきた。では共に行こう、いざ雪隠へ。と相成るわけである。

 

 そうして小便をする四歳児を観察していると、ちょろっと出して終わり。ずいぶんしょぼくれた小便なのである。人を馬鹿にしている。むろん、「おしっこいきたい」と切実なる愁訴をきたすケースであれば、ちょっとした小火を鎮火できるほどの和尚水を放つことができる。

 

 そういえば幼少の砌。おれは祖父とひとつの便器に向かって、それぞれの陰茎を差し出し、ともに放尿した記憶がある。祖父の陰茎からは、夥しい量の尿水が、滂沱たる勢いで流出していたのを憶えている。

 

「おれもいつかはあんなすごい小便ができるようになりたい」と当時、純情をもって成人に恋焦がれたが、おれは今、あれほどの凄まじい小便ができているのだろうか。ちゃんと大人の量が出てるんでしょうか。…はっ!? おれは未だに小便チョロ太郎なんじゃあるまいか!? と、追憶のメモリーの果てに、心は千々に乱れてしまうのである。

 

 しかしこうして四歳児の放尿量を研究していると、ああ、おれもだいぶ大人になったな。ゴイゴイスーな量のおしっこが出ている。思えば遠くに来たものだ。と少しくセンチメンタルな気分に浸ってみたりするのである。

 

 子育てをしていると、どうも過去の自分が息子に重なる。まるで幻影を追っているようである。きっと息子も、おれの瀝々と水面を打つ小便を目撃したら、きっとびっくりしちゃうだろう。そしてきっと子どもたちは、こうやって「はやく大人になりたい」と願うのだろう。

 

 君の願いはちゃんと叶うよ。楽しみにしておくといい。バンプオブチキンの「魔法の料理」という曲を唇に灯しながら、浴室でふたり。ちいさくて柔らかな肌をビオレボディソープで洗浄するのである。なんだかとても良い話しである。

 

 おれはいつのまにか小便チョロ太郎を卒業した。今は息子が小便チョロ太郎である。そしていつか息子の息子*1が小便チョロ太郎になり、でも本人*2に小便チョロ太郎という自覚はなく、大人になった息子が、その息子*3のちょろっとした小便を見て、「おまえ小便チョロ太郎だな」なんて笑ったときに、きっと小便チョロ太郎という概念と称号が、ひっそりと静かに脈々と受け継がれていくのだろう。

 

 ちなみにみなさんは「小便」を「しょうべん」と読みますか? それとも撥音便化させた「しょんべん」派ですか? うちではもっぱら「しょんべん」です。なので本稿では「しょんべんチョロ太郎」と読んでいただけると有難いです。読み方に水を差すようで申し訳ないのですが。

*1:

*2:

*3: