カフェが落ち着かない。
いくつになっても定職につかずぷらぷらぷらぷら。まわりの友人知人はみんな結婚し、こどもも出来て、土地を購入、家屋の建築にまで至っているってのに、きまった収入も無く、その日暮らしの風来坊「カフェ」という意味でなく、カフェというものに私はとても緊張する、という意味で。
まずもって、私はおしゃれな人間ではない。カフェとはおしゃれなものだ。その部分でおたがい相違を感じている。サッカー部と卓球部の仲良しふたり組みがあまりいないように存在ジャンルがちがう。不仲というわけではない。私とカフェはジャンルがちがうだけなんだ。
しかし、たがいに助け合うこともしばしばある。じっさい私はカフェに助けられているし、カフェにて私が経済的消費をおこなうことでカフェも多少の利益を得ている。
かくいう私はこうしてカフェにて日記を綴ることが多い。業務にて時間調整などを施すためである。時間調整とはサボりもあるけど、アポイントメントの時間におけるキルタイムだと察して欲しい。
カフェの客層も私のおちつかない理由のひとつ。
マックブックという株式会社アップルのラップトップコンピューターを開示起動し、にやけ顔をすることが一種の社会的ステイタスとなっているらしい。それはどうでもいい。どうでもいいんだが、その人の「常にアクティブモード」というのが気になる。
これはさまざまなカフェの客にたいして思うことなんだけれども。つまり雑談、商談をしているデュオやトリオ、カルテットが気になる。ソロがいたらそいつがいちばん気になるが。
静かに読書をしているだけの紳士も気になる。スマホをスクロールしまくる美女も気になる。気になるきになるキニナル鬼煮奈瑠。
なぜだろう。と思慮。たぶん私だけがヒマな存在であると感じてしまうから。私だけが虚無。私だけがぼけっとしている。私だけがいまこの瞬間、生きている理由がない。サボっている。生きることへのサボタージュ。やばい。まずい。見える、死。
しかし本来、いや元来。カフェとは、コーヒーを嗜むべき場所であって静謐な空間。落ち着いてコーヒーと空間をたのしむべき場所であり、アクティブな活動に精を出す土地ではないのでは。カフェは「なにかを行うために来る場所」ではないのでは。という逆襲の思念。
つまり、今現在、コーヒーとこの空間だけにフォーカスを当てているのは私だけ。カフェをもっともカフェたらしめているのは、虚脱しきった私だけであり、パソコンでカタカタしたり、猥談をしたり、読書をしたり、スマホをいじいじしたりする「ながらカフェ」、もっといえば「ついでカフェ」をしている彼らよりも、正式なカフェをしているのは私。
なんだ。おれはここにいていいんだ。カフェがカフェでいられるのはおれがいるからなんだ。卓球部が垢抜けないように感じるのは、垢抜けまくったサッカー部がいるから。そんな支えあうふたり。尊ぶふたり。私とカフェは「人」という漢字のようなニコイチの存在。
といいつつ日記を書いている。つまり、めちゃくちゃスマホをフリックしている。あぁ私もやはり彼奴らとおなじ。同穴のたぬき。それはカフェに対する狼藉。カフェに対する冒涜。カフェに対する裏切り。
今日もこうしてサボっている。ブレンドのホットをヤサイアブラニンニクマシマシで。