瞋恚の波動が駆け巡った。土曜のことである。
夏祭りに行った。息子の所属する認定こども園のものである。
やぐらから放射状にぶらさがった提灯。蝉の音。
汗ばむ体にまとわりつく塵埃。サンダル履き。汚れた足。
夕刻。18時。まだ空は青かった。
息子は神輿をかつぎ、園内の厄を浄化する作業などをした。
2歳児は楽しそうではなかった。
判然としない世界に迷い込んだ子羊のようだった。
そのあと○×ゲームというイベントに参列した。
長蛇ののち、先生とタイマン勝負をした。
クエスチョンマークの書かれたカード。
その裏に描かれているものを推量する賭博だった。
「食べられるもの」だったら○。
「食べられないもの」だったら×。
それを選択するゲーム。芸夢だった。
「どっちかな~?」とまじないを誦する先生。
息子はその問いに「○」を選んだ。
翻るカード。はらり。
そこに描かれていたのはクワガタだった。
「ざんねんでした~。食べられないから×でした~」
息子は景品のマシュマロを勝ち取ることが出来なかった。
私はわだかまりを抱いた。
たしかにクワガタは食わない。
それは「食えない」ではなく「食わない」だと私は思う。
だから一概にクワガタは「食べられない」から×、という答えは時代がもとめる教育、それは柔軟な発想と多角的な視点という幼少教育に相反するものではないだろうか。
これがゴム製のタイヤや、鉄製の剣、青銅で出来た鏡、水晶でできた勾玉であれば「これは食えない」と納得できたと思う。「食い物」ではないからだ。ちなみに革の財布などはぎりぎり食える気がする。煮込んで。
また「食べられそうなもの」であっても、テトロドトキシンを含むふぐ、ソラニン満載ですと宣言している芽の生えたじゃがいも、梅干、であれば私も「これは食えないものだ」と納得する。
しかしクワガタはどうだろうか。
これはがんばれば食えるんじゃないだろうか。
もしここに昆虫カテゴリでイナゴが描かれていたら、それは×なのか。
それは長野県民に対する侮蔑だと思う。
そんなんツイッターに挙げたらやばいと思う。いまのインターネットってそういう小さな声がでかくなる風潮ありますから。
我々ニッポン人は飽和した安寧のもとで生きながらえている。
カネがないと嘯いても、食うものには困らない。
そんななかクワガタは食えないものと各種手続きに署名捺印するのは、時代の傲慢というものではないだろうか。
戦中戦後のような貧した日本で同じくして「クワガタは食えない」。
そう言えるのだろうか。
難破した客船。救命ボートで飲まず食わず。仲間を殺してそれを食うことさえする狂気のなか「クワガタは食えない」。
そう言えるだろうか。
家族を人質にとられたブルースウィリス。テロリストからの要求は「クワガタを食うこと」。そんななかでも「クワガタは食えない」。
そう言えるだろうか。
私はぜんぜん食える。フライにして。高たんぱくだと思う。
そんなことを思った夏祭り。
こどもたちは浴衣や甚平姿だった。
さいきんのこどもの浴衣、女の子のものはフリフリのイケイケで発色煌びやかでキャバ嬢みたいだった。場内では「手のひらを太陽に」のトランスMIXバージョンが鳴っていた。アゲアゲだった。
遠くで蝉が鳴いていた。蝉も食えると思う。